MACF礼拝説教要旨2020.03.22 | パスタ〜Kazの「いてくれてありがとう」ノート

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関根一夫の感じていること、気になっていること、そして説教ノート、写真などあれこれ掲載予定です。

皆様、おはようございます。お元気ですか?一緒に集まって礼拝できないことは
辛いことですね。でも、それぞれに神様につながっているという確信と「きずな意識」を大切に、お互いのために祈りながら、3月中は自粛し、お茶の水クリスチャンセンターでの礼拝は休止します。4月からは再開予定です。それまでお元気にお過ごしください。
祝福がありますように。
礼拝映像は
https://youtu.be/QAfKOunQWQo
どうぞ、お楽しみください。
God Bless You
関根一夫


MACF礼拝説教要旨
2020.03.22
「福音は神の力」
ローマの信徒への手紙1章
1:16 わたしは福音を恥としない。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
1:17 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
*****
1)福音を恥としない
パウロが語ろうとしている福音は十字架で死なれたイエスという方の出来事を中心に進められていきます。
ですから、十字架にかかった人を救い主と考えるなどナンセンスと感じていた一般人にとって、この福音は「恥」でした。
「悪い冗談はやめてくれ」と言われそうな出来事であり、常識的には考えにくい内容です。
「神が救い主を世に遣わす計画があり、それを実行した」ここまではわかります。
「救い主は来て貧しさの中に暮らし、人々に神の愛を説いた」これもわかります。
しかし、「この救い主は十字架にかけられ、ののしられ、神の裁きを受けて死んだ」
「その十字架の死は私たちの罪の代価であり、私たちを救うための身代わりの死であった」「救い主は十字架の上で贖いを完成し、三日目に死からよみがえり、天におかえりになった」「今、この救い主を信頼するなら、そのお方の死と復活のおかげで、私たちに神の赦しがもたらされる」と続くと、なんだか、「ほんとかなぁ」と思いたくなってしまうのが人間一般の傾向だと思います。
「やっぱり、イエスの十字架と復活については信じにくいや。他のことはまあまあ許せるけど」という態度の人が多いのです。
そういう人にとっては、福音は馬鹿馬鹿しいたわ言のように聞こえるのです。恥ずかしい内容と感じるのです。
パウロは、わたしは福音を恥としないと語りました。

2)神の力である福音
実はパウロにとって、イエス様の福音は、恥どころか、神の力だと力説します。
それはイエス・キリストの福音を信頼するすべての人の心に救いをもたらす力があり、神への信頼、イエス・キリストへの信頼を心に受け取る人たちの生活を一新させる力があるからだとパウロはいうのです。
私たちの心に「救い、赦し、天国への確信、死からの勝利の確信、神からの希望」をもたらすのは、私たち自身の行いとか、頑張りではなく、神様ご自身であり、そのお方の力こそ、まさに福音の力、私たちを作り変える力なのです。
この「力」という言葉はダイナマイトという言葉の語源になっています。
どんな力も破壊し、新しく作り直す力なのです。
神が私たちのために用意してくださった福音には、そういう力があるのだとパウロは語り、だからこそ私は福音を恥としないと断言するのです。

3)福音の中心的部分:神の義
パウロは「福音には、神の義が啓示されている」と語っています。
この福音を知ることで「神の義」がわかるというのです。神の義とは、すなわち「神の救い」パウロが言う「義」は、私たちにはあまり馴染みがありません。
「義」という文字から、当然私たちは日本語の「義」が持っている意味を理解します。
そして日本語の「義」には、倫理的な意味しかありません。
救いとか、憐みとかいう雰囲気は日本語的な「義」という言葉からは感じることができません。
しかし、パウロはギリシア語の世界に生きていましたから、ギリシア語の「ディカイオスネー」という言葉に彼の思いを込めて「義」を語りました。
この言葉には、ギリシア文化において培われた意味が込められています。それは、「正義・誠実・正しさ」などの同義とみなされている意味で、「ディカイオスネー」は、ひとつの「徳」を表す倫理的な意味合いの強い言葉です。
この部分は日本語の「義」も似ています。
 しかし、パウロは「ディカイオスネー」にもう一つの意味を込めました。
それは、「神さまの救い」と結びつけられた救済論的な意味です。
つまり、「神の義」は、「神の救い・神の恵みの業」を意味しています。同様に、「義とされる」は、「救われる・解放される・神の恵みの業にあずかる」ことを意味します。いずれも、「神さまの救い」と結び付けた意味で用いられていますから、救済論的な意味と言われます。
「神の義」とは実は「神の正義」という面だけでなく、むしろ「神の救い、神の恵みのみわざ」を意味していることを心にしっかり留めてこの手紙を読む必要があります。
「神の義」という言葉を「神の救い」と読み替えても間違いではありません。むしろ、そういうふうに理解しつつ読む必要があります。

そして、この神の救いこそ、福音によって明確に「啓示される」というのです。
つまり、この「神の義」「神が義と認めてくださる救い」は人間がみずから努力して達成し、獲得しなければならない義ではなく、神が人間のために成し遂げてくださった「救い」だということがわかります。

4)信仰による
「それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
とパウロは書きました。「正しいものは信仰によって生きる」という言葉は旧約聖書ハバクク書の中の言葉です。
新共同訳では
2:4 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
新改訳では
2:4 見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
となっています。
この箇所でわかるのは「神は、神の前にまっすぐに立つ人を求めておられる」ことと、
「うぬぼれて自分を過信する生き方ではなく、身を低くして神を信頼する生き方を願う」人を求めておられるということ。
神を信じるとは、また改めて学びますが、神の前に何も隠さず、まっすぐに立つことを意味しています。
神と向き合うわけです。

いよいよ、本論がはじまります。
期待しながら読んでいきましょう。