塩野七生「ロードス島攻防記」
5月の末から花の色も褪せそうなくらいの暑さが続いていますが、皆さまいかがお過ごしのことでしょうか。本好きの自己満です。
今回は通常運転で小説篇から、地中海の風が感じられたら、と思いながらお届けします。
今作は「コンスタンティノープルの陥落」 「レパントの海戦」など、地中海の戦記物三部作とうたわれたシリーズのなかの第二作目です。
15世紀後半、キリスト教世界であるヨーロッパへ侵攻してきたイスラム教世界の覇者オスマン・トルコとの戦いを通して、その時代に生きた男たちを描いています。
初めて読んだ塩野七生さんの作品は「サロメの乳母の話」でした。この本がとても面白かったので、図書館にある作品を次々と読んでいきました。
読み続けていて思ったことは彼女の作品が 「小説」なのか「歴史書」なのかというところですが、私はやはり「小説」であると考えています。あくまでも自分の考えなのですが、叙述的表現か抒情的表現かによって小説の書き方が違ってくるのではないか、と。上記の考え方から言うと、塩野七生さんの作品は叙述的表現による小説だと思うのです。
そんな中で、この三部作は比較的抒情的な表現の多い作品でした。その良さをどうしても伝えたい、という情熱
に突き動かされまして、これまでの本好きの自己満は講評を主とした内容でしたが、ちょっと違った表現で書いていきたいと思います。
1522年4月、薔薇の花咲く古の島、ロードス島を本拠地とする聖ヨハネ騎士団にアントニオ・デル・カレットは着任する。
その島はヨーロッパ世界と対立するオスマン・トルコとの闘いの最前線であり、トルコにとっては巨大な帝国を形成する上で喉元のトゲのような存在で必ず攻略しなげればならない要衝であった。
そのような情勢の中、アントニオはフランスの騎士ジャン・ド・ラ・ヴァレッテ・パリゾンやローマの名門出身のジャンバッティスタ・オルシーニらと出会う。彼らとの友誼を結ぶ日々。しかしこの年の夏、大帝スレイマン一世自らが陣頭指揮を取りロードス島攻略戦が開始された。
コンスタンティノープルを後にした10万人の兵力を有したトルコ艦隊は7月28日にロードス島に上陸する。このことを予期した騎士団長フィリップ・ド・リラダンはトルコ軍を迎え撃つため、城砦を堅固なものとし、ヨーロッパ各国へ援軍を要請するが、それに応える国は無い。所属する騎士たち、島民で闘えるものたちを合わせても5,000人余りを数えるしかない戦力で、彼らは5ヶ月にわたる壮烈な攻防を展開する。
5ヶ月の籠城戦の後、アントニオは負傷し、オルシーニは戦死する。結果、多数の死傷者を出しながらも最後まで闘いきった聖ヨハネ騎士団はスルタンの提示してきた条件での開城に同意し、ロードス島は開け渡された。トルコ側の死者は5万人以上という数に上がったが、スルタン・スレイマン一世の騎士道精神に溢れた振る舞いにより、理不尽な虐殺などは無く、全ての島民、騎士団員が整然と退去していった。彼らは難民となり、島はオスマン・トルコの領土となった。
ここまで「ロードス島攻防記」の内容をざっと説明してみました。次は自分の好きなシーンなどを抜粋していきたいと思います(元本は新潮文庫「ロードス島攻防記」)
負傷したアントニオを助けたオルシーニが、病院に収容されたアントニオを見舞うところ
オルシーニが見舞いに訪れたのは、夕刻も近くなった頃である。甲冑のふれあう音にうすく眼を開いたアントニオは、病室の入口をまるで額縁のようにして立った、まだ甲冑姿の友をみとめた・・・中略
・・・ローマの若い騎士の顔からは笑いが消え、代わりに、青味をおびた灰色の眼がやさしく微笑した。そして、あいていた右手をのばし、アントニオのひたいに軽くふれた・・・中略
・・・遠ざかってゆくのを聴きながら、若者は、かつて得たことのない安らかな眠りに落ちてゆく自分を感じていた。(上記P180.6行目〜P181.5行目)
トルコ軍の攻撃によりオルシーニが瀕死の重症をおい、アントニオに看取られるところ
夕刻も近くなった頃だった。白兵戦がくり広げられていた城壁の上を、砲丸が直撃したのだ・・・中略
・・・アントニオは、剣を再びにぎりしめながら、オルシーニのことをはじめて頭に浮かべた・・・中略
・・・オルシーニは、十メートルほど離れた石塊の山のかげにいた。左半身が、石塊の中に埋ずまって
いる。それでも、駆けよったアントニオの呼びかける声に、わずかながらうなずいてみせた・・・中略
・・・アントニオは・・・友の亜麻色の髪につつまれた頭を、そっと両腕にいだいた。友は、その時一瞬だけ眼を開けて、自分を見たような気がした・・・彼を知っている者にとってはかぎりなく優しい・・・いつもの微笑を浮かべたのが最後だった
・・・ローマの騎士は、二十五歳の生涯を終えた。
(P207.10行目〜P209.5行目)
オルシーニ死後の葬いのミサのときのアントニオの心情
いつだったか、負傷して病院に収容されていた頃のことである・・・中略
・・・わかっていたというより、ある人であってくれたらという想いで、身体のどこも動かす気になれなかったのだ・・・中略
・・二人だけがともにもつ情感が交わされるようになったのである。それは、アントニオにとってはじめての、だが、二十歳の今になるまでかつて一度も味わったこともないほどに美しい、生きることの一面であった。(P210.6行目〜16行目)
かなり長く書いてしまいました。でも、どうしても書きたかった。初めて読んだときからずっとこれらの文章の美しさに泣けて仕方がないくらい惹かれていました。
ロードス島から撤退した聖ヨハネ騎士団はマルタ島を本拠地としてトルコと闘い、防衛することができた。新しく団長となったラ・ヴァレッテの執念だった。
マルタ騎士団と呼ばれるようになった聖ヨハネ騎士団にアントニオは参加しなかった。騎士の身分を捨て僧院に入り、一介の修道僧となり北アフリカに向かい宗教活動を行い生をまっとうしたのである。
時代が下って1798年6月、聖ヨハネ騎士団はナポレオンによってマルタを追放される。いくつかの場所に移動した後、最終的にはローマに移った。そして今でも人道支援と医療活動を行う騎士修道会として活躍しているのである。