トーマス・マン「魔の山」③

 春爛漫、桜も盛りのこの頃、皆様いかがお過ごしでしょうか♪
 我が家は週末の強風で台所の勝手口のドアの窓が割れ、吹き込む雨でずぶ濡れとなりました。挙げ句の果てにドアまで歪み、修理と交換で一週間、段ボールをドアとして、日の差さない薄暗い台所で過ごす体たらくです。全く今年の春はろくなことがありません。
 では、気を取り直して本好きの自己満をお送りします。


 主人公ハンス・カストルプは「魔の山」の住人となり、療養のために訪れた様々な人物に出会います。
 カストルプの師匠を自認するセテムブリーニ、ユダヤ人イエズス会士ナフタ、カストルプが心惹かれたショーシャ夫人、療養所の主治医兼所長ベーレンスなど、挙げていけばきりがなく、それらの人々が主人公を通して語られ、そして自分たちの知識や意見を披露していきます。
 読み始めた時、私はキリスト教的な思想を元とした哲学的な内容だと考えていました。でもそうではなかった。自分の読み方の浅さを痛感させられました。
 完成までに12年もかかったという大作。あまりの濃密な内容に圧倒されました。芸術、文化、政治、宗教、愛、それら様々な要素の羅列。日本の物語とは全く違う、人間形成小説。ヨーロッパ文学の層の厚みは凄まじいものだと思いました。

 圧倒的な知識の本流に晒されたカストルプには自我というものがほとんど描かれてはいません。彼は心ひかれたショーシャ夫人にさえ具体的な行動ができない。今風に言えばサッシテチャンではないかと思うくらいに受け身です。そんな彼の周りにいた知識人たちはただ彼に自身の知識を披露し注入するとその役割を終えたかの如く、回復や死という方法で、この山から退場していきます。まるで 劇の中から去っていく俳優のように。
 主人公であるカストルプはそれらの全てをただ受け入れていきます。それこそが彼を主人公たらしめている重要な要素ではないかと考えました。
 
 そんな日々の中でカストルプは、それまでの自分というものが無いような存在から徐々に変わっていき、自身を確立し目的を持って行動するようになります。
 従兄のヨーアヒムが病気の身で軍務に就くために下山した結果、病状を悪化させサナトリウムに舞い戻って亡くなっても、叔父ティーナッペルが迎えに来ても「魔の山」に留まっていた、あのカストルプが軍隊に志願し戦場に赴く。これまでの彼からは想像できない行動です。
 けれどそれは物語の終わりを告げるものでした。「魔の山」から去った彼には存在意義は無くなり、
死のみが示されるしかなかったのではないか、と私は思うのです。

 狭小な、それでいて広大なる「魔の山」!
 第一次世界大戦以前のヨーロッパ文明の名残りのような世界。

 読み終わったはずなのに、まだ私は「魔の山」を何も理解できていないのです。