【違和感その9】復興はどこへ向かう?
あらゆるものを否定して、否定して、否定しまくって、残ったものに希望を持ちたい。そんな感じです。もう少し待たれよw
東日本大震災から4年。阪神大震災と比べると、復興は遅いと思う。自分が西日本に引っ越したのは、阪神大震災から4年後の年で、関西地方の友達もたくさん出来た。でもメディアが報道する東日本大震災のような、負のイメージを抱える人はいなかった。友人は「もし同じ地震が関東で起きていたら乗り越えられないと思う。関西人だから乗り越えられた。」と良く言っていた。やっぱそうなのかな?と思いつつ、ずっと「何が違うのか?」を観察してきた。
仰る通り、たしかに関西人は明るくてフレンドリーで、すぐに友達になれる雰囲気があると思う。お笑いを媒体とする情緒的共同体が、早く復興できたらおもしろいんちゃうかな?みたいなノリで、えいっ!と復興してしまった。そんな印象だ。だけど「お笑い」からイノベーションが生まれるのか?という素朴な疑問がある。言語的な観念を媒介せず、「お笑い」という内発的な衝動や感覚に基づいた共同体は、目的が無いからだ。目的が無い活動に、我が身を預けることが出来るのか?それを考えると「No」なのである。
今まで深く考えてもいなかったけど、漠然とあってると思ってた「もし同じ地震が関東で起きたら乗り越えられないと思う」。今更ながら、これを否定するに至った。否定した上で、東日本大震災と阪神大震災を比べることから始めてみた。ただ復興を考えるに当たって注意していることがある。
人の身になるのは実はすごく難しい。他人の経験への安易な同一化は、官僚的なパターナリズムに陥りがち
丸山眞男
〈復興の定義〉
震災の発生から4年が経ち、たしかに福島県の雇用は増えている。しかし増加しているのは「建設」「サービス」「医療」。全て復興事業であり、一時的な雇用創出にしかならない。更に、福島県エネルギー政策検討会は、「県内町村の人口は高度経済成長期における都市部への流出を含め、一貫して減少しているのに対して、立地5町は発電所建設が本格化して以降、減少が底を打ち、総じて増加に転じている」と言っていた。これは、震災以前から主力産業がなかった事を裏付ける。メディアは水産業を過剰に取り上げるが、実は福島県は漁獲量は高いけど就労人口が少ない。水産業の就労人口が多く、主力産業としているのは、北海道、青森、長崎である。
これは福島県に戻る過去が無い事を示してしまう。逆に言えば、阪神大震災における復興は、元に戻すだけで良かった。しかし今回は違う。元に戻すってことは、原子力ムラの復活。原子力ムラの秩序を取り戻すことであろう。でもそこを目指しているようには思えない。家を立て直しただけでは、主力産業もなく過疎化が進んだ地方が作られるだけであり、そこに未来はない。そもそも、その状態で復興が終わったとはならない。
そこで地方創生である。アベノミクスで得た利益を地方に分配して、地方創生しなさい。あとは自分達で考えなさいというわけだ。理にかなっているところもあるが、失敗した場合、国ではなく自治体の責任になるという、責任逃れ術が潜んでいる。創生の方向性を、自治体が自分で打ち出す事ができるか?打ち出す事の出来る代表を選ぶ事が出来るか?それがポイントなのだろう。
復興の定義は何か?希望や絆という曖昧な言葉で誤魔化している場合ではない。
〈復興とショックドクトリン〉
ピケティの21世紀の資本(7,500円)を熟読していそうな50~60代のおじさんが、「ショックドクトリン」を主張する事がある。馴染みの無い方もいると思うので、簡単に説明すると、ショック・ドクトリンとは『大きなショックの直後、人々が混乱して自分を見失った一瞬の隙をついて、市場原理主義に任せた極端な国家改造を一気に行う』という、ザ・イデオロギーだ。よく左派の人が創造的破壊なんて事を言うけど、その「創造的破壊後の創造」と考えてもらえばわかりやすい。
おじさんたちがショックドクトリンを、正と負のどっちのイメージで使っているのかは良くわからなかったが、高度成長期を知っている世代だから、おそらく正のイメージであり、具体的には「吉田ドクトリン」の成功を指していると思われる。「吉田ドクトリン」とはなんぞや?となるが、早い話が日本の戦後復興のこと。確かに戦後の首相・吉田茂の功績はとても大きい。戦後の日本は、ガリオア資金、エロア資金として戦勝国から18億ドルの経済支援を受けている。普通ならば賠償金を払う立場のはずなのにだ。しかもアメリカが安全保障をしてくれるのだから、経済発展に全力を注ぐ事が出来た。更に冷戦時代には、産業が出来る国が日本しかなかったから世界の工場になり得た。こんなのただの偶然。主力産業も無いし、震災で弱体化している東北地方が、どこに何を供給できると言うのだろうか?原発を中国に・・・って、元の姿に戻ってるw
つまり供給能力が著しく下がった地域に、外部からの資本を取り入れることは困難であることは、ちょっと考えればわかること。イデオロギーに縛られて、ショックドクトリンを主張するのは無責任だと思う。ロクな方向性も与えず、少しばかりの支援をして、あとは自分で何とかしなさい。と言っているに等しい。こういう風に作られたゲームを、一般的にクソゲーと呼ぶ。
客観的に見て、今の復興は方向性が無く迷走している。復興の方向性は、自治体が自分で決めるか、国に決めてもらうかのどっちかだろう。ところが、政府はエネルギー政策をするとか言ってる割に、原発再稼動は規制委員会の判断に一任すると言い、規制委員会は政府に一任するなど、お互いに何かあった時の責任逃れを続けている。少なくとも国はあてにならないことが証明されてしまった。
〈原発反対デモは東京のため〉
東京都内で行われた脱原発デモは、ハッキリ言って東北地方の事を思いやってのデモではない。デモ参加者が、都内の放射線リスクを感じとった事により、当事者意識を持っただけであって、福島の意識とは違う。福島の意識は、他人の介入を必要としないものだと思う。それなのに危機感を煽るような情報を持ち込み、結果的に福島の人の感情を逆撫でしている。だから東京もんはイチイチ騒ぎやがってと言われるんじゃ。
話がそれそうになったけど、活動家・雨宮処凛は「原発デモに参加して、デモから自分達で政治を変えよう」と言う。しかし日本の政治が変わったって世の中は変わらない。これまで何度も政権が入れ替わっても、何も変わっていないのに、何を言っちゃってるんだか。まして3.11後、国や政治家は信用ならない!とか言っちゃうくせに、政治を変えてなんとかしようだなんて、ぐるっと一周回ってなんだか新しい発想だ。
革命っていうのは、社会を変えることの起点になるが、起点にしかすぎない。革命後のビジョン無しには、社会は変えられない。日本の5.15事件が良い失敗例だという。デモに参加した人は、脱原発後のイメージを持っているのだろうか?原発はなくしたから、あとはよろしく~。ってか?で、脱原発のお手本として取り上げられるのがドイツ。って事はドイツになりたいのか!ってかなれるのか?
で、ちょっと調べてみた。ドイツの電力発電における火力の占める割合は55%、原子力発電で15%、再生可能エネルギーで20%。再生可能エネルギーに注目すると、これははちょっとばかりコストが高い。4%程度の太陽光発電のために、電気代が月々7ユーロ増加しているとか。つまり火力発電が電力供給とコストをなんとか安定させている。それができるのは、ドイツが石炭の産出国だからである。ちょっと日本とは背景が違う。温泉なら出るんだが・・・。
で、日本の火力発電を支えているのは輸入したLNGであるから、脱原発後の電力コストはドイツのそれよりも激しくなると思う。今は東南アジアからの輸出に依存しているけど、今後はアメリカ、ロシアからも入ってくる事が予想される。ちなみに日本とロシアは平和条約を結んでいないので危険極まりない。つまり脱原発は、エネルギー自給率5%の国が、エネルギー安全保障を本気で考える時が来る事を示す。まぁアメリカに安全保障をまかせっきりにしてるんだから、アメリカのシェールガスに依存しちゃうのがお似合いかもしれない。
しかし、自分の事ばかり考えてもいられない。近い将来に、原発の中国輸出計画がある。自分達が使わないとしても、中国が低品質のものを使って中国で事故が起きたら、その影響がそのまま日本に流れてくる。研究材料として、少しばかり残す必要はありそうだ。そろそろアトムくらい作れるようにならないと。。。
〈絆という言葉が絆を壊す〉
「絆」をちょっと言いすぎ。そろそろ飽きた。なんて言うと非難されるので、ちゃんと説明します。
絆の言い過ぎは、生活保護が本当に必要な人を追い詰めているという事に、そろそろ気がつくべき。日本中で「絆」が騒がれた頃、不正受給の報道もあり、後ろめたさとかそういう自粛規制がはしってしまった。本当に受給が必要な人が、バッシングを恐れながら暮らさないといけないのはどうかなぁ、と思う。そして気がつけば、いつの間に「絆」が「絆JAPAN」に変わった。そして「がんばろう日本」。今や日本に住んでいるのは日本国籍の人だけではない。ちょっと配慮が足りないんじゃないの?って思う。東北地方には外国籍の居住者がたくさんいるし、外国籍の人も税金を払っているのに、公共支援で差別を受けているっていうのは理にかなっていない。
社会面からも一つ。社会学では絆を「減少した経済的資本を、社会的関係資本で補うこと」と表現する。これは経済的資本への依存から脱却した事にもなる。しかしこの絆は、社会構造を打ち壊すどころか、むしろ安価な労働力の供給源ともなりかねない。引き続き滅私奉公の過労文化により経済発展を望むならば、絆を騒ぎすぎる日本全体の雰囲気も納得ができる。赤木智大の『希望は戦争』にかけて『希望はブラック企業』だ。裏に潜んでいる「汚い絆」が嫌いだ。
〈騙されたって言うな〉
これを出すのは2回目だけど、
騙されたと言えば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さねばならぬ。騙されるという事は知識の不足からもくるが、半分は信念と意識の薄弱からくる。伊丹万作
とは言うが、福島県の方からすれば、無意識の内に全てが決まってしまっていたのだと思う。でも原発は、一方的に押し付けられたものでもない事は確かである。原発によって住民は間違いなく豊かになったけど、地域振興策も無いため、気がついたときには原子力への依存から離れることができないスパイラルに陥ったという感じだろう。それでも騙されたというのであれば、誰が誰に騙されたのかを明確にしなくてはいけない。それには、少し福島県の原発誘致の経緯を探る必要がある。
原発誘致については、専ら経済的背景が議論されがちだが、文化的背景も無視できないという。そのスタートは、やはりあの戦争だ。戦時中の東北地方は銃後であり、中央を支えてきた。すなわち戦時中から中央にとって、東北の利用価値は高かったと言える。そして、高度成長とともに電気の利用が高くなり、電力発電、および原子力が銃後の延長として福島県に入ってきた。こうして福島県が国家体制に組み込まれることとなり、原発が作られる必然性が完成。更に高度成長と共に過疎高齢化が進んだが、地元に主力産業を作ることは、地域衰退の歯止めの為に必要だった。豊かな生活をを得るために十分な収入を得るためには、企業の誘致と労働人口を上げて税収をあげるしかない。と。
この時の福島県知事が佐藤善一郎。官選知事が多い福島県知事の中で、数少ない民選知事であった。地域衰退を防止したい強い気持ちが、判断を誤ったのではないか?国は「原子力の平和的利用」「環境にクリーンである」という極めて漠然としていて、誰にとっても批判しにくい言葉で騙した。どっちを選びますか?と選択を迫る。制限された選択肢を示しているのに決定を迫る。自己啓発セミナーや、新興宗教でよく使われる手法だ。ここで厄介なのが、佐藤善一郎が民選知事であり、民選知事の判断は民意だと解釈されていることである。
しかし一方で、双方ともに危険を予知していたから交付金を払う、受け取って当然だと理解していたといわれている。原発リスクに対して予行練習をしていなかったという事実は安全だと思ってたからではなく、予行練習をすることは原発は危険なんじゃないかと騒がれかねないことになる。それは双方にとって都合が悪いという解釈だ。国も自治体もそれを隠してきたと言えるだろう。自治体は被害者面をしているが、あなた達も県民を騙してたでしょ!って思う。
東日本大震災をキッカケに、国民投票を行う方向に進む可能性は高い。そうなったとき、今度はもう騙されたと被害者のフリはできない。
〈復興の一例〉
地方の供給能力が下がっているのに、地価が上がり続ける事を前提とした都市政策しか思いついていないことは問題がある。寄ってたかって東日本大震災を、成長路線のキッカケにしようとしている気がする。
高度成長期を終えた現在、東北地方の銃後としての役割は終わっている。コンパクトシティを主張する人もいるけど、選択される側の身にもならないといけない。だから個々が、自治体が自分で判断をすれば良いと思う。「来るもの拒まず、去るもの追わず」だ。それを支えるセーフティネットがあれば良いんじゃないかと。