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今、何時だろうか?
腕時計を確認しようとして右の人差し指が左手の甲に触れた。
氷のように冷たくなっていることに初めて気づいた。
何も考えずにただ街中を歩いていた。
林立しているビルそれぞれが発光源になって街全体が煌々としている。
大袈裟ではなく昼間と変わらない程の明るさだ。
それで、すっかり暗くなっていたことにさえも気付かなかった。
お腹も空いたけれど、家に帰る前に取り敢えず一度温まりたい。
(どこで暖をとろうか・・・?)
(一人でも気軽に入れそうなお店はないかな?)
と歩き続けてきて、ふと足が止まった。
視線の先の建物に遠い記憶から蘇ってきた朧げな映像が
重なった・・・。
確か、ここは以前に一度来たことがある。間違いない。
店主が当時と同じ、とは限らないけれど・・・入ってみようか・・・。
外観の記憶は定かではなかったが、重厚なドアの記憶はあった。
木製の重いドアを押した。
光量を抑えたダウンライトが照らすカウンターのその向こうに
丁寧にグラスを磨いているマスターの姿が見えた。
「いらっしゃいませ・・・あぁ、お懐かしい。」
「お久し振りです・・・その節はありがとうございました。」
たった一度訪れただけの私を覚えていてくれた・・・
あれから随分と時は過ぎたはずなのに
店内は記憶の中の風景と全く変わっていないように思えた。
変わったと言えばマスターの頭髪に多少白いものが混じったくらいで
穏やかな面差しは変わっていない。
来たのは一度きりなのに、私自身にこれ程の記憶が残っていたことにも驚いた。
マスターに促されてカウンター中ほどのスツールに腰を下ろした。

あれほど冷え切っていて、温まりたくて足を運んだはずなのに
腰を下ろすまでの僅かの間に、そんなことさえもすっかり忘れていた。
不思議な魅力のあるバーだとつくづく思った。
「今日は、何になさいますか?」
「そうね、スコッチか・・・ブランディ―・・・
ブランディ―の水割りをいただけますか?
トワイスアップで・・・」
「かしこまりました」
目の前にグラスが差し出された。
琥珀色の液体を眺めていると思わず目頭が熱くなった。
暫く、無言で店の雰囲気を味わっていた。
グラスを磨くマスターの姿も店の風景の一部になっていた。
「あのあと私ね、再出発できたのよ。マスターのおかげ。」
「私は何もしていませんよ。それどころか、あの時は
余計なことを申し上げたのではないかと反省していたのです。」
「そんなことない。その後の私の人生は大きく変わったの。
とても幸せだった・・・」
「(・・・だった・・・?)」
「あの後、少しして結婚したの。
白馬に乗った王子様が現れたのよ。
ふふ・・・勿論見かけじゃないわよ・・・。
とても不思議な出会いだった・・・聞いてくれる?」
「はい、私でよければ。」
アルコールを嗜む時間には少し早いのか私の他に客はいない。
私の人生に於いて最大の岐路で道標になってくれた人であり
不思議な包容力のあるマスター相手に何となく話をしたくなった。
「その前に、おかわりをいただけますか?
甘くないものを・・・できたらジンベースで」
「かしこまりました」
「珍しくはありませんが、ギムレットです。
お口に合わなければ違うものをおつくりしますよ。」
「ありがとう・・・口当たりがとてもまろやか。美味しいわ。」
「マスターのおかげで随分前向きになれていたのだけれど
何もかも誰もかれも信じられなくなっていたのね。
私・・・・・
・・・施設で育ったの・・・今でいう育児放棄に加えて理不尽な暴力。
両親は余程、私のことが嫌いだったのでしょうね。
理由なんて私にわかる訳もない。
両親が存在するにも拘らず施設育ち、あり得ないでしょう?
暫くは恨みもしたけれど今になって思えば、これで良かったって思う。
ただ・・・親に愛された経験がないからなのか
誰かに愛されたいという気持ちが誰よりも強かったと思うわ。」
「そういう下地があるからか、人の温かさに異常に憧れる。
その反面信じきれない部分もあるのね、情けないことだけれど。
憧れて信じて利用されて裏切られて・・・その繰り返しで学んだわ。
何せ、元々親にまで捨てられた人間だもの、厭でもそうなる。」
「結婚したのは5年前。
一人になりたい時、仕事帰りによく立ち寄る喫茶店があったのだけれど
その店で時々見かける男性がいたの。
ある日偶々言葉を交わす機会があって・・・世間話に花が咲いてね。
時々見かけたのは不思議でも何でもなく彼の家が隣のマンションだった。
何度か喫茶店で会ううちにいつの間にか自分のことまで話していた。
まるでセラピストのような彼には異性という感情は全く持たなかった。
当時の私は恋愛なんて懲り懲りだったし、したいとも思っていなかった。
当然、結婚なんて考えることさえ苦痛だった。
温かい家庭に憧れていながら家族を持つことに途轍もなく不安があった。
家族をもつことが怖かったのだと思う。」
「それなのに・・・
幾月か経ったある日、何故か彼のプロポーズを受け入れていた。
誰かに背中を押されたような気持ちになったこともあるけれど
彼を異性という以前に、人として信じられると強く感じたの。
その時感じたことは間違っていなかった、と今でも自信をもって言える。」
「いつも傍に寄り添っていてくれていた。
離れていても常に気にかけてくれた。
楯になって私を護ってくれた。
私が一歩も踏み出せないでいると後ろからそっと背中を押してくれた。
そういう人だった・・・。
こういう人が世の中に存在することに驚きでしかなかった。
まるでお伽噺の中の王子様みたいでしょ?」
「その王子様が、先月急に天に召されてしまった・・・心筋梗塞。」
「普通はこんなこと考えもしないのだけれど、
誰かの力によって導かれたとしか思えない出会いだった。
その『誰か』にずっと感謝していた。それなのに
あまりにも幸せにさせ過ぎたのじゃないか?と
期間を短く区切られたのかもしれない・・・その『誰か』に・・・」
「大切な人がいなくなるって、こんなにも辛いものなのね。
彼からは大切なものを抱えきれないくらい貰った。
いなくなってしまった今でも彼の優しさが身に沁みてる。」
「でも・・・その彼を・・・・・
彼の実家から両親が来て彼を連れて行ってしまった。
骨になってしまってまであなたの傍に置くわけにはいかない、って。
私が施設育ちでなかったら、って思うと・・・とても悲しかった。
それ以来、すっかりひとりぼっちになってしまったわ。」
「そうでしたか。とてもお辛い思いをされたのですね。」
「どんなに泣いても喚いても彼は戻ってはこないのに・・・ね。
今日がちょうど四十九日・・・一人でいると辛くて、寂しくて。
ついつい街の中を徘徊していたってわけ。
そうしたら、記憶の中にあった風景が飛び込んできたの。
また、マスターに救われたわ、ありがとう。」
「私もお目にかかれてとても嬉しいですよ」

「こちらも珍しくはないのですが、私から。
マルガリータです。
テキーラベースですのでお口に合いますかどうか。
『無言の愛』という意味があるのですよ。
あるバーテンダーが亡くなった恋人を想って名付けたといいます。」
「カクテルの女王と称されるお酒よね?そういう意味があったのね。
遠慮なくいただきます。」
口当たりがよく、飲み口も爽やかだった。
「最初に召し上がっていただいたギムレットは
『遠い人を想う』『長いお別れ』という意味が込められています。
そして『勇気を出して』・・・という意味も。
大切なご主人を亡くされて悲しい涙をたくさん流されたと思います。
その深い悲しみの中におられるあなたをどうお慰めしたらよいのか
私にはかける言葉が見つかりません。
ただ、ご主人もあなたとの別れは本当にお辛かっただろうと思います。
ご主人のお人柄を思うと最期まであなたの幸せを願っていたと思いますよ。
ご主人に見守られているのです、これからはきっと佳いことがありますよ。
後ほど、もう一杯ご馳走させてくださいね。
最高に元気になれるものをおつくりします。」
なるほど。
私がドアを開けた時からマスターは何かを感じていたのだろう。
過去にたった一度訪れただけの客なのに・・・
マスターの言葉がとても温かく胸に沁みた。
私の心の中を覆いつくしていた寂しさ虚しさを和らげてくれて
それだけでも十分嬉しかったというのに、元気までもらった。
「ありがとう。」
家族もなく、信じられる友もなく、
世の中すべてに絶望感しか抱けず、
ただただ、打ち拉がれていただけの私だったけれど
これからは少しでも笑顔を忘れずに前を向いていこう・・・と思えた。
またこの店に来よう。
不思議な魅力のマスターがつくる美味しいカクテルを楽しみに・・・
-------------------- by macaroon -------------------
2005/6/16 『蒼い月』の後日譚です。
語彙貧困文才欠如、未熟な私の妄想語りです。
以前事実であるかのように捉えられたことがありますが
どうか誤解無きようお願い申し上げます。