なる姉は猫みたいだ。
何かに縛られたり、相手が誰であっても気を使ったりしない。もっと現実的なことを言えば、彼女は非社交的なのである。誰かと戯れたりせずに一人でいることが多い。
図書館で本を読んでいるなる姉が僕は好きだった。
「また来たね佳織ジュニア」
彼女は姉貴の親友、よって僕のことを姉貴の名前+ジュニアという名前で呼ぶ。
「なる姉、いい加減僕の名前で呼んでよ」
「あんたはあいつの弟なんだからジュニアはジュニアでしょうよ」
なる姉は僕が思う文学少女とは遠くかけ離れている。だけど彼女は文学少女だ。講義と講義の間、昼休み、行きの電車、帰りの電車、ずっと本を読んでいる。本の虫というのは彼女のことを指すのだろう、時々虫のように煩わしい時もある、本物の本の虫というのは五月蝿くもあるのだ。
なる姉はコーヒーで唇を濡らしたあと「ジュニアは?ひまなの」と聞いて来た。
「ひまじゃあない、忙しいけどなる姉が居たから来た」
いつからだろう、僕は僕の中の感情を彼女に隠さなくなった。
「いつもストレートだなぁ君は」
僕はなる姉が好きだ。
「だけど、それをいう相手は私じゃあない。分かるでしょ?」
なる姉は僕のことが普通だ。
友達の弟、それが彼女の中の僕の立ち位置。僕が彼女の中で存在できる唯一の場所。
「彼氏、いないんでしょ」
「いらないわよ?」
「質問と答えがあってない」
「イコールよ、そんなもん」
「あなたに好意を向ける人にとってイコールじゃないんだよそれは」
「難しくて、面倒臭いこというのねジュニアは」
「なる姉の返しの方が面倒だったよ」
言ったなぁ〜、とニコニコしながら指先で僕の方をつつく。いたずら心にあふれたその顔は悪魔の微笑みに他ならない。僕をいくらでも弄ぶことができるのはこの世のどこを探しても彼女だけだ。
「ねぇ、ジュニア」
つつくのに飽きるとそのまま同じ声の調子で問いかけてくる。
「なに」
「私はきっと、あなたの事を好きになることはないよ」
「そんなの分かってる」
「じゃあなんで諦めないのよ、しつこい男は嫌われるわよ」
「なる姉に嫌われなければ、僕はなんでもいいんだ」
「一途なこった」
オーバーな身振りで彼女はごまかした。いつもそうだ、おどけて見せては話を有耶無耶にする。
「じゃあジュニア、君に1つだけチャンスをあげよう」
「チャンス?」
「あそこの電信柱を見たまえ」
図書館の窓から指差した方向には確かに電信柱があった。
「あそこに貼ってある迷子猫のニャーちゃん、彼女を見つけて来てくれ」
「は?」
「もし見つけて私の元に連れてこられたら、付き合いってでも、結婚でもしてあげるよ」
「…本当?」
「私が嘘をついたことがあるかい?」
「確かに嘘はつかない。ごまかすか、色々な見方のある言い方をして正統化する」
「ほうほう、君はよく私のことを見ている」
こんなことを言ったところでなる姉は怯むことはない。
「さぁ、お行きジュニア!ニャーを必ずとも、私の元へ連れ帰るのです」
「連れ帰るってなる姉の猫じゃないだろ」
と反論するとケツを叩かれ行動を半ば強制的に促される。行った方がこれは得策だと僕は考え、ニャーを探しに行く。
図書館を出る時振り返ると、なる姉はニヤニヤした顔でこちらを見ていた。
すると口をパクパクして僕に何かを伝えている。僕は眉間にしわを寄せて「ん?」という顔をしたが、今度彼女は手をヒラヒラさせて行け行けと言う風に口パクをした。
「なんなんだ」と小声で呟いて僕は図書館を後にした。
奇跡かと思った、捜索から30分経った頃、写真と全く同じの猫がいた。
その猫は人に慣れているようで、僕が抱き抱えようとしても大人しかった。これを連れて帰れば…。しかし、こんな付き合い方で良いのだろうか、なんだか変な感じだ。
何より気になったのは、猫の名前である、張り紙に書かれた猫の名前は『ニャー』ではなく『レオ』であった。しかも、この名前には聞き覚えがあった。マンション暮らしな上に、猫はあえて散歩させたりはしない。そのため、見た目だけでは分かりづらかったのだが、間違いなく同じマンションの僕と同年代くらいの女子高生の飼い猫だった。
途端に嫌な予感が身体中を駆け巡った。体内中の溜まっていたモヤモヤが神経を伝っていき身体の機能を鈍らせていく。それに負けてはいけない、そう思い立った次の瞬間から僕の足は動き出していた。
まずはじめに図書館へと行った。案の定彼女の姿はなかった。
次になる姉の家へと駆けた。なる姉はそこにもいなかった。
なる姉には両親がいない。そのため、この家で一人で暮らしていた。それは僕が経験来たことのないことだ。だけど、悲しかったと思う。それは彼女の背中が、彼女の声が、彼女が図書館でコーヒーを飲むときの顔がそれを物語っているから。
だから僕は彼女のそばにいたい。
僕は彼女と出会えて恋をした。
そして、その話を聞くよりも先に彼女の寂しさを読み取った。哀れみなんかでもなく、ただ、ただ、彼女のことを守りたい、支えたい。
学校でいじめられて独りだったとき、手を差し伸べてくれたのは、独りだった彼女だったから。
支えてくれたのは彼女だったから、今度は僕が、僕が、僕が!!
その日、なる姉が見つかることはなかった。
大学から帰って来た姉に話を聞くと、なる姉はどこか遠くへと旅に出たらしい。行き先は伝えられていない。ずっと前から大学は辞めていて、アルバイトをして貯金を貯めていたと言う。
「今日は講義が休みなんだ」「私が嘘をついたことがあるかい?」
嘘だらけだ、彼女の言葉。
なんで、信じてたのは、支えられていたのはやっぱり。
僕だけじゃないか。
何も返せなかった自分に絶望して、泣いた。
「くそっ…あのっ、嘘つき…っ!」
僕は誰に当たってるんだ、僕自身だったはずだ。それが今は彼女に当たっている自分がいる。もう嫌だ、こんな自分は。
胸の中で抱かれたレオが呑気な顔をして「にゃあ」と鳴いた。
僕はしばらくして落ち着いたあと、猫を返しに女子高生の家へと訪ねた。
「レオー!おかえりー!やっと帰って来たのね」
僕は気になったことがあった。
「あの…、レオくんは、その、誰かに誘拐かなんかされてたんですか?」と尋ねた。
レオはなぜ外に出れたのか、飼い主もそこまで心配している様子ではなかったので、そこが気になった。
「誘拐ですか?あはは、それは違いますよ!」
笑われた、割と僕は本当にそうなのではないなと心配して聞いてみたのに。
「誘拐じゃなくて、レンタルですよ、レンタル」
「レンタル?」
「はい、あ、別にいつも貸し出してる訳じゃあないですよ?確か…お兄さんのお姉さん、なんかややこしいですね、お名前は…えっと」
「ジュニアで、いいですよ」
嫌いだったはずの名前を咄嗟に僕は名乗っていた。
「ふふ。じゃあ、はいジュニアさんで。で、ジュニアお姉さんのお友達のなるさんがウチにやって来たんですよ」
「なる姉が⁉︎」
「それで『上の階の女子大生の友人なんだけど、驚かせたい奴がいるから猫を貸してほしい』って言われたんですよ」
「で、貸したんですか?レオくんを」
「はい、面白かったので」
彼女は大切な猫をイタズラに使われることを良しと思っているのだろうか、自分だったら絶対いやだ。
「私が、どうやって驚かせるんですか?って聞いたらレオに自分との別れを告げさせたいって言ってました」
「別れを…ですか?」
「あれ、まだ付いたままですよ?あっ、てか私が見つけちゃだめか!」
彼女はそういうとびろーんと伸びた猫の首元に指をやった。よく見ると首輪の間に紙が挟まっている。
「これって、まさか」
そっと首輪から紙を外すと、それはやはり手紙だった。
「こんなこと言うのもあれなんですけど…、読んで見てくれませんか?」
なる姉からの最後の手紙。
女子がよく授業中に回していた手紙の折り方で作られたそれを僕はゆっくりと開いた。
手紙の内容は一文だけ。
それでも僕の瞳が言うことを聞かなかった。新しく川ができるように、柔らかく水の道を作り、その道をまた辿って頬に水を流して言った。
「これって…暗号か何かですか」
女子高生は不思議そうに聞く。
「いや、これはただの、バカですよ」
『ジュニアへ
私はあなたに綺麗な月を送る。
なる姉様より』
あなたと見る月は、確かに綺麗そうだ。
