(前回からの続き)

さてこのセブンアンドアイによる祖業尊重、これは「親に孝、主に忠」にもつながる日本あるいは東洋独特の、礼儀思想あるいは美意識なのだが、欧米人には単なるサボりと油断にしか見えない。この東洋と西洋の文明の差が、根っこにある。東洋の農耕民族は共同作業が主であって、そこに根付くのは規律と連帯感の重視であり、他方西洋の狩猟民族は先手必勝であって、自由と露骨な順位と隙狙いなのだ。

 

まあこのように、世界の民族を農耕民族と狩猟民族に2分するのは、今の学界では許されていない。民族とはそのような単純なものではないという、多くの研究結果を集約しているからだ。だが私は、この一文はもちろんのこと、これまでに書いたすべての文章およびこれから書くだろうすべての文章について、ことあるごとに「これは学術ではない」と断っている。微細に明け暮れる学問を離れて大局観に立てば、このような大分けは大きく理解に寄与する。

 

その上で今回のセブンアンドアイの買収提案を見れば、これはある意味東西文明の衝突である。そして残念なことに経済はもちろんのこと、世界標準も現在は狩猟民族に握られているのだ。だがこういうと、「忠と孝の日本人だって自由は欲しいし、何よりも新しいスマホは欲しがる」、あるいは「君たちだって楽して稼ぎたいだろう」などと言われる。これは確かにそうだ。それでは後発の農業文明の方が、先発の狩猟文明より劣っているのだろうか?

 

そもそもやはり楽して稼ぎたい日本人が、なぜセブンアンドアイの祖業重視を容認しているのだろう。これを考えるには、一見劣って見える農耕文明が、なぜ狩猟文明の中で淘汰されずに生き残ったのかを見ると、分かりやすい。

 

農耕文明の長所は、手間はかかるが生産物を長期に貯蔵できることだ。これは短期的には特に得はないものの、長期的には民族が長く続くのに決定的だった。ただこれにも問題があって、狩猟民族は農耕民族を襲って、その生産品を分捕るのが最も安楽な生きのび方だと、言うことになる。実際にこれまでの歴史を見ると、狩猟系の盗賊の財産分捕りは、日常茶飯事だった。

 

だがこの分捕りをほしいままにしておくと、農耕民族は単に、キリギリスにくいものを貢ぐアリになってしまう。そこで農耕民族は城壁を築いて自らを守った。この城壁が現代風に言えば国家による保護貿易だ。そして城壁破壊を試みるのが世界標準という圧力と、昨今のクシュタールというわけだ。

 

今も言ったように農耕民族は財を蓄えられた。蓄えは余剰につながり、その余剰によって貧富の差と身分階級が生まれた。そして身分階級にはそれを是とする政治哲学が生まれ、それが典型的には儒教の忠と孝であり、これは東洋的プロパガンダとして農耕民族に属する個人から、不当に自由を奪った。

 

先にも言ったように、農耕民族もこの上なく自由は欲しいのだ。この観点からすると今回のクシュタールは、我々日本人からつまらない忠と孝を取り除く、実はありがたい黒船なのかもしれない。

 

 

↓の続きです。

 

 

イメージ画像は、下記のサイトよりお借りしました:

7&iHD買収資金、クシュタールはカナダ年金基金に接触-関係者 - Bloomberg