以前の記事で、生物と機械の最大の違いは心(心象)を有するか否かであり、人の脳と人工知能の決定的な違いは「自ら感じるか否か」であることを指摘した。人は切られると痛みを感じこれを防御しようと自ら行動するが、人工知能の部品を壊しても機能の一部が損壊するのみである。ルールに「痛い」と書いておけば「痛い」と言うアウトプットは出すが、自らが痛いわけではない。

 

ただどうしても分からないのがこれら人の諸心象の脳内におけるトポロジーである。そこで人の脳における「痛い」と言う脳内反応、これを赤ん坊の成長とともに経時的に見ていこう。痛いという心象の生成であるが、まずは指等から脳へ神経系を通して信号あるいは励起状態が伝達され、それが脳内の特定のエリアでの励起状態となる。ここまでは機械でもできる。人の場合は本能により事前に設定された脳内の特定の励起位置で、伝播した刺激が脳に痛みを感じさせる。つまりあたかも脳に直接とげが刺さったかの状態になる。

 

生まれたばかりのころは心象の種類は多くなくて、せいぜい好きと嫌い、あるいは良いと悪いくらいだろう。指が切れると脳の「嫌だ」部位が、あるいは「嫌ホルモン」を出すかあるいは「嫌型」に励起するのだ。その結果赤ん坊はとりあえず、本能レベルの設定された反応として泣き出す。これは腹がすいた時も大して変わらない。そしてミルクをもらうと満足して「好きホルモン」の分泌か「好き型」励起が起き、本当に心地よくなる。併せて「嫌な時は泣くと逃れられる」と言う法則を学習する。

 

こうして当初の心象は「好き」と「嫌い」の2種類くらいしかないが、成長とともにいろいろ動けるようにもなりまた学習の回数と種類が増えるとともに、同じ「嫌い」だったものが、腹がすいた場合とけがをした場合で微妙な違いが判るようになってくる。機械にはない人特有のアナログ能力である、「似ているものを同じとまとめる能力」の発露である。こうして「嫌だ」心象は「腹が減った」心象と「痛い」心象に分離していき、かつそれらに対する対応も異なることを、自ら学んでいく。

 

この時点では心象の種類は10以上になり、「嫌型」は隣り合いつつも分化し、「好き型」もやはり隣接しつつ分化していく。合わせて、関係の深い「○○が好き」と「××が嫌だ」同士はより接近する形へと、トポロジーの相互調整をしていく。この時すでに心象相互のトポロジーは決して平面的あるいは次元的ではないので、早くも非次元空間の原型ができる。加えてそれらの位置は固定ではなくむしろ振動していて、波の性格も有する。こういう行為が積み重なって人の脳空間は、より複雑でかつ環境に対応できるほどに成長していく。

 

このように本能とその後の経験学習により心象は成長していくので、脳内での心象の強さや広さは心象ごとに多種多様であり、スパッと切れる物理法則のようなものは存在しない。これは心象が、そもそも複雑な周囲の環境の概略の写像であるということの反映でもある。しかもそれらのトポロジーは常に揺らぐし、また個人単位でも大まかには同様なものの異なってくる。この「大まかに同様」なのが人としての一般的な共通の傾向であり、細かい異なりが個人の個性に対応する。

 

こういった心象空間の全体像をイメージするのは容易ではない。だが少なくとも部分的にも平面や立体のような線形ではないことは、容易に察しが付くだろう。もっとふにゃふにゃした雲のようなものだ。数とか足し算とか掛け算等は数直線や平面の存在を無言の前提としているから、皆が当たり前と思い込んでいて教えられている今の算数や数学も、脳内空間ではかなり特別な例外的なケースと位置付けられる。その例外の内側をごちゃごちゃいじっているのが、今の数理科学である。

 

心象空間はむしろ、粒度や粒形が異なる多様な結晶粒の集まり隣り合った集合体をイメージした方が近いだろう。それにしても未経験の事象、例えば初めてマンゴを食べたときのあの食感と味は脳内でどこにどうやって張り付けられるのだろうか。全く新たな味だから、少なくとも既にある心象の内挿ではないはずだ。まあ「甘い」の近くとか「メロン」の近くとか、はじめはその辺だろうか。これも心象空間の発達の態様である。この辺の操作から心象に特有の、何か新しい演算フィールドが見えてくると良いのだが。

 

さて、人の心象は本能をベースとした統合学習で成長することを見てきたが、もしこれだけだとすれば人は自己防衛以外の何らの行動もしないことになる。しかし現実には美しい芸術を見て感動したり、温泉につかってリラックスしたり、うまいものに舌鼓を打ったりと、それがなくても生死にかかわらないようなことを好んで行う。むしろ人生全般ではこちらの方が、より価値が大きいほどだ。こういう趣向の存在はどう説明できるのだろうか。またその脳内位置はどの辺だろうか。

 

おそらく本来的発生的には自己保存本能だろう。具体的には「より安全」とか「超安全」と言った、「危険から遠い」と言う距離感と余裕の喜びが発生源である。だが現実にはこのような経路を忘れるほどに、喜びは人の固有の大きな人生の目的になっている。人以前にサルやカピバラでも温泉に入るし、猫や犬は喉をくすぐると気持ちよがる。まさか首を絞められようなどとは思わない。生物にこのような余裕ができたのは、思うに生物が生殖と世代交代を終えてもなお生きることとなったのとほぼ同じタイミングではないか。

 

以前の記事で、生物と機械の最大の違いは心(心象)を有するか否かであり、人の脳と人工知能の決定的な違いは「自ら感じるか否か」であることを指摘した。人は切られると痛みを感じこれを防御しようと自ら行動するが、人工知能の部品を壊しても機能の一部が損壊するのみである。ルールに「痛い」と書いておけば「痛い」と言うアウトプットは出すが、自らが痛いわけではない。

 

ただどうしても分からないのがこれら人の諸心象の脳内におけるトポロジーである。そこで人の脳における「痛い」と言う脳内反応、これを赤ん坊の成長とともに経時的に見ていこう。痛いという心象の生成であるが、まずは指等から脳へ神経系を通して信号あるいは励起状態が伝達され、それが脳内の特定のエリアでの励起状態となる。ここまでは機械でもできる。人の場合は本能により事前に設定された脳内の特定の励起位置で、伝播した刺激が脳に痛みを感じさせる。つまりあたかも脳に直接とげが刺さったかの状態になる。

 

生まれたばかりのころは心象の種類は多くなくて、せいぜい好きと嫌い、あるいは良いと悪いくらいだろう。指が切れると脳の「嫌だ」部位が、あるいは「嫌ホルモン」を出すかあるいは「嫌型」に励起するのだ。その結果赤ん坊はとりあえず、本能レベルの設定された反応として泣き出す。これは腹がすいた時も大して変わらない。そしてミルクをもらうと満足して「好きホルモン」の分泌か「好き型」励起が起き、本当に心地よくなる。併せて「嫌な時は泣くと逃れられる」と言う法則を学習する。

 

こうして当初の心象は「好き」と「嫌い」の2種類くらいしかないが、成長とともにいろいろ動けるようにもなりまた学習の回数と種類が増えるとともに、同じ「嫌い」だったものが、腹がすいた場合とけがをした場合で微妙な違いが判るようになってくる。機械にはない人特有のアナログ能力である、「似ているものを同じとまとめる能力」の発露である。こうして「嫌だ」心象は「腹が減った」心象と「痛い」心象に分離していき、かつそれらに対する対応も異なることを、自ら学んでいく。

 

この時点では心象の種類は10以上になり、「嫌型」は隣り合いつつも分化し、「好き型」もやはり隣接しつつ分化していく。合わせて、関係の深い「○○が好き」と「××が嫌だ」同士はより接近する形へと、トポロジーの相互調整をしていく。この時すでに心象相互のトポロジーは決して平面的あるいは次元的ではないので、早くも非次元空間の原型ができる。加えてそれらの位置は固定ではなくむしろ振動していて、波の性格も有する。こういう行為が積み重なって人の脳空間は、より複雑でかつ環境に対応できるほどに成長していく。

 

このように本能とその後の経験学習により心象は成長していくので、脳内での心象の強さや広さは心象ごとに多種多様であり、スパッと切れる物理法則のようなものは存在しない。これは心象が、そもそも複雑な周囲の環境の概略の写像であるということの反映でもある。しかもそれらのトポロジーは常に揺らぐし、また個人単位でも大まかには同様なものの異なってくる。この「大まかに同様」なのが人としての一般的な共通の傾向であり、細かい異なりが個人の個性に対応する。

 

こういった心象空間の全体像をイメージするのは容易ではない。だが少なくとも部分的にも平面や立体のような線形ではないことは、容易に察しが付くだろう。もっとふにゃふにゃした雲のようなものだ。数とか足し算とか掛け算等は数直線や平面の存在を無言の前提としているから、皆が当たり前と思い込んでいて教えられている今の算数や数学も、脳内空間ではかなり特別な例外的なケースと位置付けられる。その例外の内側をごちゃごちゃいじっているのが、今の数理科学である。

 

心象空間はむしろ、粒度や粒形が異なる多様な結晶粒の集まり隣り合った集合体をイメージした方が近いだろう。それにしても未経験の事象、例えば初めてマンゴを食べたときのあの食感と味は脳内でどこにどうやって張り付けられるのだろうか。全く新たな味だから、少なくとも既にある心象の内挿ではないはずだ。まあ「甘い」の近くとか「メロン」の近くとか、はじめはその辺だろうか。これも心象空間の発達の態様である。この辺の操作から心象に特有の、何か新しい演算フィールドが見えてくると良いのだが。

 

さて、人の心象は本能をベースとした統合学習で成長することを見てきたが、もしこれだけだとすれば人は自己防衛以外の何らの行動もしないことになる。しかし現実には美しい芸術を見て感動したり、温泉につかってリラックスしたり、うまいものに舌鼓を打ったりと、それがなくても生死にかかわらないようなことを好んで行う。むしろ人生全般ではこちらの方が、より価値が大きいほどだ。こういう趣向の存在はどう説明できるのだろうか。またその脳内位置はどの辺だろうか。

 

おそらく本来的発生的には自己保存本能だろう。具体的には「より安全」とか「超安全」と言った、「危険から遠い」と言う距離感と余裕の喜びが発生源である。だが現実にはこのような経路を忘れるほどに、喜びは人の固有の大きな人生の目的になっている。人以前にサルやカピバラでも温泉に入るし、猫や犬は喉をくすぐると気持ちよがる。まさか首を絞められようなどとは思わない。生物にこのような余裕ができたのは、思うに生物が生殖と世代交代を終えてもなお生きることとなったのとほぼ同じタイミングではないか。

 

これらの喜びや感動と言う心象の位置関係は本能よりもさらに複雑であろうが、まとめて概観するならばいずれも「危険」からはもっとも離れた位置にあるだろう。また喜びや感動については、本能からももっとも離れた位置にあるものと思われる。こういった特徴的な心象の在り方を瞑想することにより、脳内空間の秩序が見つかってくるかもしれない。

 

画像は下記のサイトよりお借りしました:

「赤ん坊」の意味・語源・由来を解説 - 語源由来辞典 (gogen-yurai.jp)