東洋的イデオロギー

一般に、西洋は人工的イデオロギーが支配し、東洋は自然と一体化する感性が支配している。欧米はその気質に合った一神教がその人工性をますます固くし、東洋では融通無碍な多神教が心をますます深くしている。西洋のイデオロギーとは、「万物は人に支配されるためにある」とか「神に近づく方法は学習である」と言ったきわめて幼稚なものであり、しかも異端審問がうるさいのでかたくなにこれを守らないと命がない。

 

それに対して四季自然に恵まれて稲作が中心の東洋では、その自然や環境に寄り添い四季の移り変わりに合わせて生きる、アニミズム的な無為自然こそが最高の境地だと悟っている。この悟りのあるなしは大きな違いである。かつて米国のブッシュ大統領は、「祈ったらフセインは大量破壊兵器を持っていると出た」などと言う頓珍漢で、十字軍を始めた。悟りや精神修養の無い宗教で祈っても訓練皆無のニセ医者と同じで、単にでたらめの思い付きを正当化するだけだ。

 

このように西洋のイデオロギーとは万事が見え透くほどに幼稚であり、その最たるものが共産主義なのだが、では自然に即した東洋にイデオロギーはないかと言うと、残念だがそうではない。例えば陰陽道、陰極まれば陽となり陽極まれば陰となる、これは極めて深い自然観察の結晶なのだが、使い方によっては決めつけのイデオロギーになってしまう。また儒教の特に秩序構造、孔子は人の集団を注意深く観察してそこに秩序の美を見出したのだが、孔子以降の儒教はかたくなな年功序列になってしまった、典型的なイデオロギーである。

 

更には四神五行思想や日本の大和魂や武士道も、その発生は極めて深い気づきと高い魂の高揚であるのだが、だから西洋のイデオロギーのように幼稚で見え透いてはいないのだが、しかししばしばイデオロギー化するリスクがあることは歴史が証明している。

 

例えば明治維新と天皇制、これはネット右翼が理想郷として掲げ感涙して希求するものであるが、決してネット右翼の言うような、古代の記紀神話に直接に遡るようなものではない。もちろんつながりはあるのだが、万世一系が強調されたのは明治維新以降で、その目的も富国強兵であった。

 

ただ、ここが日本人の優れたところなのだが、日本が開国するにあたって欧米帝国主義の直輸入では限界があることにすぐに気づいて、日本人の古来の精神構造を生かす形で専制を敷こうと工夫したのが、万世一系たる天皇制の起源なのである。だからそこには、記紀神話ももののあわれも武士道もおもてなしもすべて包含された、そういう心にしみる仕組みを持った専制形態であった。そしてこの精神で開国からわずか30年後には日清日露の大戦に勝利を収めている。

 

さて、この武士道の心を温存した専制形態だが、日本人のメンタリティをうまく包み込んだ大成功であったことは今述べたとおりだが、それは別の面から見れば、日本人が希求して止まない精神主義を認めると言う「譲歩」や「妥協」でもあったと言うことだ。だから、明治維新以降大東亜戦争終結に至るまでの日本は、結果として民意が通っていて意外なほど民主的であった。

 

行き過ぎた武士道と言う精神主義は、日清戦争後の三国干渉に自国の国力も考えずに憤慨し暴動を起こした。日露戦争のポーツマス条約では、賠償金が取れなかったことに自国の戦費が底をついているにもかかわらず憤慨した民衆が、全権の小村寿太郎の家に投石するほどの騒ぎになった。日本海海戦の陰の立役者だった上村彦之丞中将がそれ以前にロシア艦隊の捕捉に失敗した際にも、民衆は彼を「露探提督」(ロシアのスパイ)呼ばわりして投石した。

 

この過ぎた武士道は昭和になってますます先鋭化し、五一五事件や二二六事件と言う反乱を許す土壌となり、犬養毅や浜口雄幸の暗殺を容認し、満州国設立や関東軍の暴走による日中戦争の拡大を止めることができなかった。皇道派にしてみれば、単に民衆の声が上がるのを待ちさえすれば良かったのだ。実録によると、昭和天皇はことあるたびに軍部の暴走を抑えようとしたと言う。ここに真の帝王教育の成果を見る。だが立憲君主制の制限の内では、天皇すらも暴走する民意を抑えることができなかった。そして無謀な英米開戦と敗戦が必然的にもたらされる。

 

私がネット右翼に危うさを感じるのは、彼らにおいては武士道がイデオロギー化し硬直化して思考停止状態に落ちいっているからだ。これでは過度の精神主義で合理的発想の無い、戦前のしくじった日本人と何ら変わらない。もちろん日本人の武士道精神は尊いがそれは自然と共存する柔軟思考に於いてであって、イデオロギー的先鋭化においてではない。もし日本人が先の大戦から何も学ばないとしたら、それは武士道が実は共産主義ほど価値が低いことを意味してしまうのだ。

 

先日に「相対の中の絶対」と題する記事をアップした時に私は、「自由平等博愛はキリスト教とは無関係な人類普遍の原理であって、あらゆる思想信条は自己の伝説を墨守する前に、この絶対的価値を持つ合理精神を尊重するように進化する義務がある」と書いた。その際はIS国を生んだイスラムを例にしたが、これは日本の武士道にとっても無関係ではない。

 

戦後に一時左翼反動したものの最近の原点回帰、これは喜ばしいと思っている。だがもしこれが単なる戦前への郷愁と復古であるならば、日本人は再び世界情勢音痴、合理主義音痴の愚を繰り返すだけであろう。自分が期待したほどでなかったと言う理由で、武士道に名を借りて今度は安倍首相に投石するかもしれないのだ。今がちょうど良い時なので、武士道をぜひ自由平等博愛と習合させて、尊厳と素心により一段高い武士道へと進化してほしいと思う。

 

画像は下記のサイトよりお借りしました:

天皇制ファシズムと「国家神道」、そして柳田國男が温存した「神道」のドグマとは? 岩上安身によるインタビュー 第707回 ゲスト 島根大学名誉教授・井上寛司氏(近代・現代編) | IWJ Independent Web Journal