蓋然推論の例 

先日「非論理の例」と言う記事で、論理が飛躍しているにもかかわらず人間の常識として納得できてしまうやり取りの例を挙げました。そしてこの中のいくつかは、蓋然推論もしくはその組み合わせに還元できます。本日はより代表的な蓋然推論や蓋然論理について、いくつか例示します。ここで蓋然推論とは、推論に一定の理屈や因果関係はみられるものの、絶対真という訳ではなくむしろ内容が関与する推論のことです。

 

・宇宙飛行士は帰還するとなぜか農業を始める。

これは全員ではありませんが、毛利さんはじめ幾人か見られます。そして宇宙と言う最先端科学と農業と言う泥臭い経験的手仕事と言う対照的なものが結びついているところに、この気づきの面白さがあります。蓋然推論には知恵や深い経験が関与するので、面白いというのは重要な要件です。端的に言えば、知恵を感じればその該当例は多くなくとも良いのです。ここであえて理由を考えると、①宇宙の神秘に触れて心が洗われたとか、②科学の極限をやってその限界に気づいた、等が挙げられます。米国人で宗教の開祖になった人もいました。似たような格言に、「科学者ほど実は超常現象を信じている」と言うのもあります。

 

・佐野源左衛門常世は北条時頼の人柄を見抜いたので、虎の子の松の木の盆栽を切った。

この元の話は謡曲「鉢の木」の題目で、「いざ鎌倉」の起源ともなった人情話です。元の執権北条時頼は僧となって領地を回っていたある雪の夜に、1軒の貧しい家に宿を求めます。その主が佐野で、「悪い人に騙されて今は落ちぶれているがいざ鎌倉の時は真っ先にはせ参じる」と、痩せこけた馬を見ながら言います。そして名も知らぬ僧のためにわずかに残った大切な松の盆栽を切って暖を取らせます。時頼は政所に帰り武士たちを招集するとその中に佐野が居り、痩せた馬が笑いものになっています。時頼は佐野の忠義をほめ、広い領地を与えました。

 この話で意外と見落とされているのが、佐野の人を見る目です。単なるお人よしや愚かな忠義者なら、人が来るたびに松を切っていてとっくに破産していたことでしょう。ここはやはり、佐野はその僧を見てただ者でないと思ったから松を切ったのです。もちろんこれは私の推論ですが、重要な論点だと思っています。

 

・「キリストの福音を伝えに来ました」→「間に合っています」→「どうして話を聞かないうちから間に合っていると分かるのでしょう」

この話は先の鉢の木の話と逆で、形式的な硬直論理に拘泥して知恵がない愚か者の典型です。人は普通、人生の多くの体験から学習して、大抵の事柄にその人なりの相場観や一般則を獲得しています。その一般則に照らすとキリスト教は、「口先だけで裏がある」「日本の土壌にはおよそ異質だ」になります。今の世は有価物や情報が山ほどあって選択に困るほどなのに、明らかにつまらない話にわざわざ時間を割くでしょうか。もしそんな見え透いた理屈に騙されて時間を割くようなら、その人は正真正銘のバカです。

 

・「なんでこの高価な茶器が割れているのだ」→「あ、本当だ、どうしたのだろう?」

この人は実は経緯を知っている、もしかしたらこの人が割ったのかもしれません。でも関わり合いを嫌がって、あえてとぼけています。要するに相手の議論の土俵に乗らないことによって、非論理に情報を減少させて話をうやむやにしようとしているわけです。ここでも「バカ正直は知恵がない」と言う重要な法則が実践されています。なお、キリスト教では「正直ワシントン」が変に奨励されています。

 

・俺は義務教育しか受けてないので、難しい話は理解できないよ。

この人の一番痛い点は、「義務教育は高校までを言う」と思いこんでいることです。それはこの人の全体的な態度と物言いから容易に推測できました。つまり、この人の物言いは謙遜のつもりだったのかもしれないが、実は自分が思っているよりももっと教養がない、頭が悪いということです。ちょっと痛すぎです。

 

・午前中はご遠慮ください。

論理学的に理屈を言えば、この言明は午後については何も言っていないことになるが、現実的には大抵、「午後においで下さい」の意味になる。もちろん絶対ではないが、厳密には直観に頼るべきだが、午後に出かけてみる価値はある。そういう積極性を持つ人が、「できる人」です。

 

・物が壊れると怒られるが、壊れないとこれまた「過剰設備だ」と怒られる。

どっち道怒られるという悩ましい立場ですが、これは現実には良く遭遇する場面です。ではどうしたらよいのでしょうか。どうすることもできません。「問題には考えれば必ず解がある」と言うのは、愚かな人や薄っぺらな人が良く垂れる教訓ですが、実際は解決法の無い問題の方が多いのです。

 

・私が数学の話を始めたら、数学の大嫌いな娘が大声で歌を歌って茶化した。

すぐ上に描いたような上司に当たると、とてもやりにくい。その対策法の一つは、この例のように話を逸らす、茶化すことです。理屈に乗ったら負けです。機械や人工知能にはおよそできない手段をとるのが、最も効果的です。「はい分かりましたと答えてでもやらないで放置する」「なるほど鋭い指摘ですなどと同調して忘れる」のも1つの方法です。

 

・「スプーンはDIYで買わなくても100均の商品で十分だ」と言った同じ人が、「車のエンジンオイルはけちらずに高目のオイルにしなさい」と指示する。

これは表面的には無方針で態度がばらばらに見えますが、実は個々の物の役割と商品の態様を知っていての適切な判断です。表面的な理屈が通る方が実は中身をよく見ないでいて、かえって危ないものです。君子は豹変します。ただし中間管理職程度だと変に平等性と普遍性を求められるので、面倒な場合もあります。

 

・ラングランズ先生の数理科学の壮大な統一予想と先生が多言語を自由に操れることには、関連性がありそうに見える。

 

これは私の気づきではありませんが、この話を聞いて如何にもありそうに思いました。数学と言語能力、およそ異なる分野ですが、通底している感じがします。単にこの先生が「頭が良い」というだけでなくて、広くかつ細やかに物を器用に見て実践する能力とでも言いましょうか、その手の能力に長けているのです。これはもう理屈抜きに蓋然定理です。

 

画像は下記のサイトよりお借りしました:

ウェブサイト「いざ鎌倉」 (izakamakura.jp)