サルカニ聖書

以下ウィキペディアより引用

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾ったと交換しようと言ってきた。蟹は最初こそ嫌がったが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので、蟹はおにぎりとその柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えると、いっきに成長して柿がたくさんなった。そこへ猿がやって来て、柿が取れない蟹の代わりに自分が取ってあげようと木に登ったが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やらない。蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけ、蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。

その子供の蟹達は親の敵を討とうと、栗と臼と蜂と牛糞と共に猿を家に呼び寄せ敵討ちの算段をする。栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると、栗が体当たりをして猿は火傷を負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとして牛糞に滑り転倒、屋根から臼が落ちてきて猿は潰れて死に、見事子供の蟹達は親の敵を討てた。

(引用以上)

 

さて、この説話でサルとは何者でありましょうか。このずる賢く高慢ちきな嫌らしい生き物、これはあなた方自身です。罪に凝り固まって膨れ上がっています。ではカニとは何者でありましょうか。カニのお母様こそ、実はあなたの罪の身代わりにカキの実に打たれて死んだ、あなたの救い主のイエスキリストです。罪は放っておくとどんどん大きくなります。ウソがウソを呼ぶのです。カニのお母様は実はそれを御存知でした。そしてサルであるあなた方自身が悔い改めるのを、ひたすら我慢して待ち続けていたのです。

 

それにも拘らずあなた方は無情にも、そのカニのお母様の無償の愛を理解するどころか、返ってこれに怒りを向けて、ついに死に至らしめてしまったのです。何と嘆かわしいことでしょう。カニのお母様は種のカキを一所懸命育てて下さった。これもその深い慈愛からです。そしてカニのお母様はカキが育って立派に恩返しをしてくれるのを楽しみにしていました。でもあなた方はその救い主を石で打ってしまいました。

 

さてここで天の父なる神様の愛の奇跡が顕現します。カニのお母様は子供を残した、これは父なる神の御慈悲に依り、救い主はなくなられてもなおのこと、この地上にあなた方のために救いの種を残して下さったのです。ここにカニのお母様はカニの子供たちとして蘇られました。死んで黄泉に下り、天に登り、全能の父なる神の右に坐し給い、そして7日後に蘇られたのです。

 

父なる神さまのご意思で蘇られたカニの子供たち、それに付き従う栗と臼と蜂と牛糞と言う名の4名、実はミカエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエルの4名の天使なのですが、それぞれ囲炉裏、水桶、土間、そして屋根からお生まれになります。これは救い主様が飼馬桶で生まれたのと同様に、救いは貧しい所から生まれることの比喩です。蘇った救い主はこれら4名の天使を従えて地上に凱旋されました。

 

そして一致協力してサルつまりあなた方の罪を徹底的に攻撃されます。ついにあなた方の罪が死ぬ時がやってきました。と言っても皆さんそれぞれ自分の罪を顧みると分かるように、罪は簡単には死にません。死んだと思っても息を吹き返し、無くなったと思ってもまたむくむくと頭をもたげてくるのです。ですから子カニと天使たちはあるいは燃え盛る炎に依って、あるいはあふれ来る洪水に依って、またあるいは滑落の仰天に依って、さらにあるいは大石による押しつぶしによって、これを完全なる死に至らしめます。これは黙示録の世界です。人間でおよそ、このハルマゲドンを生き延びられる人はいません。全て救い主の御守りが必要です。

 

こうしてハルマゲドンを生き延びたあなた方はもはや罪のない、父なる神の似姿に変えられて、金色に輝いています。主の凱旋です、ハレルヤ。あなた方はこうして、何の勲もない、取るに足らない者であったにもかかわらず、ただ一重に神様の御心により選びだされ、永遠に滅びない器とされたのです。なんとありがたいことでしょう。あなた方はただこの奇しい救いを信じさえすれば良いのです。修業や苦行は要りません。サルが何か修業や良いことをしたでしょうか。

 

信仰によって蘇ったあなたたち、あなたたちはこれからもただ一つのことを述べ伝えれば良いのです。即ち全能の父なる神はただお一人であり、カニとして地上に現れた救い主とはその御子であって、天使や精霊さまと三位一体の関係にあると言うことです。この奥義と秘儀を、まだ知らない人々に是非述べ伝えて下さい。この唯一の神様は限りなく慈しみ深いと同時に悪には限りなく厳しく、どうしても従わない人はサルのように打たれてしまいます。時は迫っています。救いと滅びの審判の時は間近なのです。さあ、今すぐ何人も深い信仰に入って、一人も落伍者の出ないことを祈っています、アーメン。

(説教終了)

 

このようにキリスト教の教理構成に、どうでも聖書がないと理論武装ができないと言うことはありません。日本と言う世界の端の、子供向けの民話からでも、同じ組織神学は作れてしまいます。逆に聖書からの引用だけで正反対の論理も作れてしまいます。キリスト教系のセックス教団すらあります。

 

この説教を聞いて何かすっきり来なかった人も多いでしょう。それは一神教の組織神学が余りに屁理屈に偏っていてみずみずしい感性が失われていることが、元の話が簡単だからこそ余計に分かりやすく浮き彫りにされているからです。一神教の教理など、この程度のものです。元の説話のままの方がよっぽど気持ちが良いでしょう。チャンチャン。

 

画像は下記サイトよりお借りしました:

さるかに合戦(さるかにがっせん) | おはなし | ゆめある (yumearu-ehon.com)