究極の選択

10年ほど前に、皇室に40年以上も男子が出生していないことを問題視した当時の政府が、首相の私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」を設け、その座長にちょっと畑違いとも思われる、工学者で元東大総長の吉川弘之先生を指名した。そして先生主導で提案された諮問結果は、「女系天皇の認知か宮家の復活を認めるか以外に皇統の確実な承継の道はない」と言うものだった。

 

これに対し有識者の反応はさまざまだったが、特に神社筋が「女性天皇はいたが女系天皇の前例はない」として女系天皇に大反対した。ここで女性天皇とは女性が天皇になることで、持統天皇など数名がいる。他方女系天皇とは女性皇族の子孫が天皇になること、つまり例えば清子(さやこ)内親王が臣籍降下せずに黒田さんを「黒田殿下」などと夫にした上で、その子供が天皇に即位することだ。

 

ちなみに神社の最高位は伊勢神宮であり、天皇は言わば最高位の神主であるのだから、この反論は部下が上司の人事に口出ししているようにも見えるが、民主主義の世の中では世論を味方につけることは強い力を持つし、一般神主の心情からしても「皇統保持=伝統保持」であるから、前例のない女系天皇が自分の上に座るのには、違和感があったのだろう。

 

他方で宮家の復活、これは例えば清子さんのようにそもそも皇女であった者が皇籍に復活する、あるいは高円宮の娘たちを臣籍降下せずに結婚させる、更には終戦後に皇籍離脱した11宮家の子孫を再び皇族にする等色々な段階が考えられるが、いずれにしても一般市民を伴侶とする、伴侶とした、あるいは親に持つ人が皇族になる訳で、これにもアレルギーを示す人がたくさんいた。

 

この委員会と諮問は、程なくして悠仁さまが誕生すると沙汰やみになってしまったが、悠仁さまに万が一ということを考えると、決して再燃が無い問題ではない。もちろん悠仁さまが無事に成長して、男の子をたくさん産んでくれればそれが一番良いことなのだが、絶対にそうなると言う保証はない。その時どう再燃するのだろうか。

 

そもそもこの問題の直接の原因はいわゆる「まさこさま問題」であるが、この皇太子に男児がいないことに加えて、子を設けた高円宮家、三笠宮家ともに女児だけなのだ。これは確率の問題とは言え、ちょっと悲しすぎる。皇弟の常陸宮家にも子はいない。さらに遡れば昭和天皇の弟の秩父宮も高松宮も男児を残していないのだ。これはとんでもない確率だ。

 

もっと大元に帰ると、GHQの指示に依る11宮家の皇籍離脱政策が災いしているとも言える。この11宮家は世襲親王家とも言われ、江戸時代に創設された制度で、代々親王宣下を受け得る4家とその分家である。一見代重ねをするたびに天皇との血筋が遠ざかるようにも見えるが、そこは皇族待遇なので、それにふさわしい婚姻を継続してきていた。例えば竹田宮の奥方は明治天皇の第6皇女の昌子内親王で、このひ孫が竹田恒泰氏である。そう言う意味で臣籍降下さえ問題なければ、何らかの筋を辿って男系のみによりいずれかの天皇に遡れる人が多かった。ただここ70年の平民生活でこれも途切れているが。

 

実はこの問題、誰もそういう言い方はしていないが、一番の障害は昔と違って天皇が側室を持てないことである。明治天皇までは側室を置いた。側室と言っても明治天皇の場合は柳原愛子さんで伯爵令嬢である。そして大正天皇の生母は正憲皇太后ではなく柳原愛子さんで、この時既に側室制度のお陰で皇統がかろうじて繋がっている。これは先例と言える。実際に昭和天皇は叔母の柳原白蓮に良く似ていたと言う。だが現代に於いて象徴天皇とは学級委員長のような立場だから、残念だが率先垂範の立場からこれは禁じ手だ。

 

で、結局もしも悠仁さまに何かあった場合、例えば皇籍離脱を強く望まれるとか男子が生まれないとかそういうことがもし将来にあった場合、現に海外では皇太子になるべき男子が自ら皇籍離脱した例があるのだが、日本人はどうしようとするのだろう。吉川先生の建言は、先生が人文系でないので宣伝工作に稚拙ではあったものの、工学者としてシステム論的な結論は正しい。だから将来、「女系天皇も嫌だ、宮家の復活も嫌だ、でも皇統の途絶はもっと嫌だ」と言うジレンマに日本人が陥った時に、日本人は総意としてどの選択肢を選ぶのであろうか。これこそ究極の選択と言える。

 

敢えてヒントを言うなら、もちろん皇統は昔より万世一系ではあるが、皇統初期の平安初期ころまでの天皇のなり方や選び方は、まだ前例が薄いこともあり、またまだ天皇が万世一系だという意識も薄かったために、かなり乱暴なことも行われてきた。例えば天武天皇は名天皇として名高く、伊勢神宮を始め現代にまで続く諸制度を整備した天皇だが、その皇位は兄の天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)を敗死させて奪ったものである。また、聖武天皇の娘の孝謙天皇は後に称徳天皇として重しているが、これはその間の淳仁天皇を追放幽閉してのことである。また、継体天皇のときはかなり無理をしてつなげている。こう言うことも、現代人は触れたくないだろうが、前例の1つだ。良い前例ではないが、これらの例は思考を柔軟にせよと言っていないだろうか。

 

(下の画像はウィキペディアより)