知り得ることは僅かである

先日ニュートン力学について触れた際に、力学はより根源的には「作用」が最小になる状況が実現されると言う「最小作用の原理」で成り立っていることを記した。そして、ここまで一般的になるともう剛体の力学だけでなく、幾何光学も電磁気学も同じく最小作用の原理に従っていることにも触れた。つまり最小作用の原理は物理のかなり根源的なところを押さえていると言える。ですがこの調子で最小作用の原理は、「物理の全てを司っている」と考えて良いのだろうか。もし良いのなら、物理学はかなり見通しが良くなる。

 

ここで剛体の力学と並んで我々にお馴染みな、熱流動の支配方程式を見てみる。熱流動は剛体と違って流れることが特徴で、その支配方程式は「移流拡散方程式」で記述される:

 

特に移流項が非線形である点が、これまでの剛体の力学等と異なっている。この式の変数Φを①質量とすると連続の方程式、②流速(運動量)とすると流れを支配するナビエ・ストークスの式、そして③熱量とするとエネルギー方程式になる。さてここで本題に行くが、この大元の移流拡散方程式は最小作用の原理を満たすであろうか。結論から言うと満たさない。少なくとも「満たす」と言う文献を私は寡聞にして知らない。移流項と言う非線形項の存在を考えても、解析幾何的なオイラー記法では、熱流動は最小作用の原理を満たさないと思われる。

 

最小作用の原理を満たさないと言うことは、その物理が言わば「無駄なエネルギーを必然的原理的に垂れ流しつつ実現している」と言うことになる。この無駄なエネルギーが流体力学に於いて、乱流現象として現れていると考えられる。乱流現象があるからこそ、世の中の熱流動は撹拌が効率的になされているのであり、また界面の熱伝導が効率的になされているのであるから、その意味では「全くの無駄」ではないのだが、しかし流れの主流の実現にとっては、言わば不要な摩擦でしかない。熱流動の方程式には安定解が存在しないと言われているが、その非存在性は乱流現象に象徴的に現れている。

 

さて、熱流動が最小作用の原理に則っていないとすると、最小作用の原理をさらに拡張したハミルトニアンやシンプレクティック幾何学、あるいは大域幾何学の位置づけはどうなるのであろうか。結論から言うと力学をここまで拡張してもなお、この幾何学の熱流動への応用はあり得ない。その意味で剛体の力学をいくら拡張しようとも、「ニュートンありきの力学」の範囲を越えられるものではなく、結局は一般性と汎用性を究極の使命とする数学の一分野でありながら、実は越えられない限界のある解析手段であると言うことになる。

 

さて、その流れであるが、特に水路や浜辺の液面流れを見ていると、面白いことに気付く。浜辺に寄せる波は、浜に近づくにつれて段々突っ立ってきて、ついには崩れて砕波する。この現象を利用したのが、スポーツとしてのサーフィンであり、波のトンネルを滑るように抜けて行く技は見事である。この現象の応用として工学的に面白いのが、没水型消波ブロックである。つまり消波ブロックを、液面より頭を出すと波がまともにぶつかって構造上不安定になる可能性があるので、全部を水面下に沈めて部分的に浅瀬を作る形とする技術である。

 

そうすると波はなぜか、なぜかと言うのは、波はあくまでも液面の現象であるにもかかわらずあたかも水底の浅さに気付いたかのように、その没水ブロック上で砕波するのだ。砕波すると波としてのエネルギーは失われて岸は護岸され、目的を達成する。だがもしその波が砕波に至らなかった場合は、その没水ブロックエリアを通り過ぎると、その突っ立った波は再び普通の波に戻る。それは水面波があたかも、水深が再び深くなったのを感知しているかのようなのだ。

 

この現象をどう考えたら良いのだろう。一般に波の理論は、その波の高さがミクロなうちは正弦波として近似できるが、マクロになって突っ立ってくると、それは非線形の移流項が目立つために、もはや摂動法も手に届かない強度の非線形域に入り、これを解析的に記述する方法はおそらく無い。ちなみにこの移流項は大ざっぱに言うと、「回り込む性質」である。

 

流れと言うとすぐ話題になるのが「乱流量」である。これは流れがミクロレベルでどれだけ乱れて、ミクロな渦になっているかを示す量である。だがこの乱流量とは別に、おそらく「移流量」とでも呼ぶべき物理量があって、これが渦度のように完全に保存量なら理論もあるのだろうが、おそらくは完全でない「擬保存量」のようなものであって、この移流エネルギーが、浅瀬に来ると水深方向の逃げ場を失って、でも擬保存量だから消滅も叶わず液面側に回り込むために、波が突っ立つのではないかと考えられる。そして浅瀬を抜けるとこの移流量が再び水深方向に戻るのだ。

 

この考察は実は現在の物理の方向にも一石を投じ得る。数学や理論物理の理論展開は、「陽に式に書ける解析解が存在する」ことを暗黙の前提に進められている。そして幸運なことにその前提で日々理論は進化し続けている。だがこの液面波の問題は、結構な基本量が実は解析式で表現できないこと、むしろそう言う「解析式で書けない」姿の方が普通であることを、象徴的に表してはいないか。そしてもしそうであるならば、現在の数学や物理の進展は如何にも着実に見えるものの、実は幸運にも式で書けた部分のみを、あたかも飛び石のように跳んで渡っているだけで、実は我々が知り得ていない、今の調子では永遠に知りえない事実は山ほどあり、しかもその分布も偏っていると言うことになる。

 

例えば素粒子の生成消滅、理論的にはエルミート演算子で記述されるが、そのリアルな姿を見た者は誰も居ない。計算機の能力からして当分無理だろう。だがもしその研究者が機械的思考しか持ち得ない人ならそれで満足するかもしれないが、多少なりとも好奇心がある人ならその姿を見たいと思うだろう。化学反応も然りである。仕方ないとは言え、我々が知ることを許されていることは限られていて、知り得ることをかぎ分けると言う現世的な能力に長けた人だけが、科学者として大成するのだ。

 

ニュートンは「最初の科学者」であるかのように言われているが、彼が人生で最も力を注いだのは錬金術であって、その意味で彼はむしろ「最後の錬金術師」と呼ばれるのが適当なのである。そしてそれにもかかわらず彼だけが今でもなお高名なのは、彼が他の錬金術師と異なって、「すぐに陽に定式化できる(当たり前のつまらない)物理」、具体的には力学や光学や哲学の基礎の部分を、まるで二重人格のようにこれだけ割り切って世に発表した、そう言う現世的割り切りの上手い人だったことである。

 

画像は下記のサイトからお借りしました:

はじめてみよう!流体解析(入門編)[Ⅱ]~レイノルズ数と乱流~:有限要素法マルチフィジックス解析ツール Ansys:サイバネット (cybernet.co.jp)