江戸時代は士農工商という身分制度があり、その下には「えと」「ひにん」などとよばれる士農工商よりもさらに低い奴隷のような身分とされた被差別部落民がいました。
現代の日本では、(1)資本家、(2)旧中間階級、(3)新中間階級、(4)労働者という「4つの階級」を大枠として分析されるとのことですが、この資本家のさらに上には「支配者層(天皇、官僚、政治家)」が存在しています。
しかし、元々階級社会というのは人間の心が生み出したもので、これは、自分が他よりも優越したいという意識による「差別心」が人間の心の根底にあるからでしょう。結局は今も昔も「差別心」は消えてなくならないのです。日本では人種差別はあまりありませんが、「階級」という差別がまだまだ根深く残っていると思います。これが実情です。
(以下、引用)
「私、俺、僕、あたし。日本語に一人称を表す言葉が沢山あるのは、一体なぜだろう」と村上龍の小説「イン・ザ・ミソスープ」に書いてあるが、”お金の神様”邱永漢氏はそれは「日本が階級社会だから」だと言っていた。
日本が階級社会だから、相手に合わせて自分の一人称も変えるという慣習ができあがったのではないか、と。
よく日本人は「偉い人にはペコペコして下の人間には威張る」と言われるが、これも日本が階級社会だからでしょう。
日本は昔も今もれっきとした階級社会なのです。階級とは人間の心が生み出したもので、それらは人々の「差別」によって成り立っている。
「格差」の問題も階級社会の差別が生み出したものだ。実際、非正規雇用者の半分は正社員とまったく同じ仕事をしている訳で、両者を分けているのは差別以外の何者でもない。
支配者層の人間は「分断して統治せよ」で下々の人間が互いに足を引っ張り合っていてくれた方が都合が良いと考えている。
労働力がダンピングされて格差が広がると、結局低い方に引っ張られて全体の賃金が下がっていくから儲かるのは経営者だけだ。本来なら労働争議では非正規も正社員も「共闘」以外に選択肢はない筈なのだが・・・
階級社会的な他者への「憎悪」がこの国の断絶と停滞を生んでいると考えるのは間違いだろうか?
(以上)