スリー・ビルボード | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

なるほどいい映画のように思える。

人にはいろんな感情があり、あるいは何も考えていなかったり、頭ではわかっているのに、唐突に理に合わない行動をとってみたり、その挙句、他人も自分自身も不幸になってみたり。

 

しかし、そんなことは映画には関係がない。それがどうした。

 

いや、人間の多様な感情をそのままに見つめて良しとする映画もある。その中には、ああこれこそ映画だと感動したりする映画もある。しかしこの映画の場合はどうも声を大にして「それがどうした」と言いたい気がする。

 

なぜか。

例えばトリュフォーと、例えば黒沢清と、最近でいえばジャームッシュの「パターソン」と比べて、なぜこの映画が描く多様な感情は「それがどうした」と思えてしまうのか。

 

 

もはや誰も目に止めなくなった古いビルボードの風景が数ショット展開するのが、この映画のオープニングで、その程よきカットにメインタイトルが出るわけだが、どうもまどろっこしい。

もちろん、オープニングを形作るために、そのような失われたアメリカの風景ともいうべきショットを重ねることは理にかなっているのだが、どうもまどろこっしい。

美しい風景は美しいまま、すんなり映画の中に収まる。1ショットだけならまだしも、それが数ショット繰り返されると、それは「オープニングを形作るにふさわしい美しいショット群」に収まるのみで、そのショット自体は何も物語はしない。

 

そして主人公の女性が乗る車がやってくる。このシーンで彼女はビルボードに自分のメッセージを広告しようと決意するのだが、映画は彼女の決意をやけにカットを割り、いろんな角度から彼女の表情を捉え、それに対するビルボードのアップを挿入し、やがてビルボードを管理する広告代理店の名前のアップでこのシーンは終わる。

(ちなみにこの次のショットが極めてダサいスローモーションで、正直、私はこの時点でこの映画を見限った)

 

唐突な決意。それを表現するにあたって、これだけの尺、これだけのカットが必要か。必要です、と言われればそれまでなのだが、何かダサし。他に手はなかったのか。

長い1カットで十分、それもなんか物欲しげでしょ、第一よくわからぬ、いっそのこと、決意するシーンをカットするのはどうだ。

議論は尽きぬが、ていうか、そもそもこのような「決意」って映画にふさわしくない、という感じは確かにあるし、「あ、この人なんか決意した」って雰囲気を1ショットで感じさせるのが映画だろ、と思うのだ。数ショット重ねるのもいいかもしれぬが、それはあまりにも制度的、ダサい。なぜならカットで見せる志がないからだ。編集でなんとかしよう、そんな映画は嫌いだね。

 

 

そして三枚のビルボードを掲げた母親は、深夜、警察署に何度も電話をし誰もいないことを確認してから、火炎瓶を投げ込む。警察署には彼女に嫌がらせを続ける警官がおり、彼は敬愛していた警察署長の遺書を読むことに夢中であったため、電話にも火災にも気付かず逃げ遅れてしまう。

 

いろんなことがこのシーンに凝縮され、いろんなことが行動として、アクションとしてよくわかる、ある意味「巧い」とも言えるシチュエーションなのだが、全くノレない。

それはどうも理屈っぽいからで、書いてて面倒くさいからで、母親の唐突な行動が「よくわかる」次元でしかなく、そのアクションが映画的な快楽と結びつかないからだ。

 

多様な感情が交錯すること。しかしこの映画は「多様な感情」を感情として描くことに終始し、映画として描いていないように思う。多様であるはずの感情は「人は唐突にいろんなことをしでかすのね」と感情のレベル内に収まっていて、決して映画として弾んでこない。

 

だから面倒臭い。面倒な映画はつまらぬ。

 

金子修介がツイッターでいいこと言うてた。

「ソフィアコッポラのゲイジュツフレイバーより、ドンシーゲルの作劇の方が映画に貢献してる」