ダンケルク その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

マキノ正博は傑作「やくざ囃子」の中で、前のシーンでは被っていたはずの笠が、次のシーンでは被っていないことに撮影中に気づく。マキノはその笠が草むらの中に置かれているショットを急遽撮り、シーンの繋ぎに使う。そのショットは単につなぎのショット、間に合わせのショットであると同時に、枕詞的なショットとして、次のシーンの情感を高めることとなる。

 

あるいはかの黒澤も、かの「七人の侍」で撮影されたあるショットが前後のショットと動線が逆であったため、現像処理で左右逆にし、それを挿入したという。

 

あるいはかの、つなぎの達人、成瀬巳喜男でさえこのような間に合わせのショットを撮っている。

「浮雲」で高峰秀子が金を持ち逃げし、旅館で森雅之と会話するシーン。

庭先にいる高峰と室内にいる森雅之の切り返しから、高峰が室内に上がり会話を続けるのだが、高峰が室内に上がるショットがない。撮り忘れたのか、あるいは成瀬流の視線演出でそのショットを見せなくてもつながると判断したのかはわからないが、成瀬はつなぎのショットとして、高峰の主観風に室内の森にトラックアップする、全く成瀬らしからぬショットを挿入している。

「山の音」でも、これで大丈夫と判断したのだろうか、まるで清順のような奇妙なカットつなぎを目にすることがある。

 

あるショットは映画の中のどの位置に挿入されるかがあらかじめ決まっている。その想定に従って撮影されるわけだが、時に、その想定が予期せぬ事情で変更されたり、間違っている場合もあり、その都度、監督なり編集者は修正案を撮り、編集するわけだ。

 

しかし、全てのシーンが様々な角度から撮られ、様々な素材に事欠かぬハリウッド流の撮影では、このような「間に合わせのショット」はありえぬ事態だろう。つまり、ハリウッド流の撮影においては、すべてのシーンが一続きに撮影されており(あるいはそうなるように撮影されており)「つなぎ」という概念がないとさえ言えるかもしれない。

「ノーランは決定的なショットが撮れない」と言うのは、ハリウッドにあって実は奇妙な事態なのだ。

 

だから逆説的にはなるが、そのような「間に合わせのショット」とは、厳密に編集を想定した撮影が生み出すものである。自由度に欠ける撮影が生み出す、柔軟で融通無下なショット。

 

「ノーランは決定的なショットが撮れない」が褒め言葉となるのは、だから「ダンケルク」が厳密に編集を想定した撮影を行っているからだ。

しかしノーランの才能は「決定的なショット」を「間に合わせのショット」「柔軟で融通無下なショット」にせざるをえないのではあるが。

 

それがCGを排した実物主義、70mmカメラによるフィルム撮影がもたらしたものであるかどうかはわからないのだが、少なくとも、これまでのノーランにはない厳密さが「ダンケルク」にはある。

「このカットを撮る」のであって、「このシーンの素材を撮る」のではないと言う意思。

 

またこれまでのノーランは登場人物にあれこれかれこれ言い訳や行動理由やメッセージをグダグダと言わせ、さらにその主張を映像上でも演出し、だからもぉ面倒臭い映画ばっかりだったのだが、今回は、そういうウダグダがない。

兵士や民間人の行動をただ捉えるのみといった演出が、そのような「事態を撮る」ための最適な方法として、厳密に撮ることを選択させたのかもしれない。

 

ドイツに包囲されたダンケルクの街で用を足そうとする兵士が銃声を聞き、走り出す。

次のショットは、数人の兵士が銃弾を避けようと壁に向かって走る、そのトラックアップである。このショットはいかにも、このシークエンスのここにしか挿入されえないショットであった。アップショットなどもノーランは撮っているとは思うのだが、それを挿入することを許さず、主役の兵士以外が次々と銃弾に倒れていく、その様を捉えたこのトラックアップは素晴らしいと思う。

 

あるいは桟橋に並ぶ多くの兵士が、飛行機の音を聞きつけ空を見上げる。次のショットはその俯瞰ショットとなる、この繋ぎの鮮烈さ。

 

あるいは沈没しようとする駆逐艦が、その船体を桟橋に傾けていき、海に飛び込んだ兵士達が船体に挾まれていくシーン。ここでもノーランは船体に挟まれるショットを撮影していないのか、救助する兵士のみを捉えるのだが、ここでの船の質感、鉄の塊の質感が素晴らしく、ようやくノーランの実物主義の効果が発揮されたと思う。

海が青いのも素晴らしい、そしてその海に飲み込まれる兵士達の姿が素晴らしい。

 

また、燃料がなくなりグライダーのように滑空するスピットファイヤの姿。飛行士は車輪が出る出ないのサスペンスを演じるのだが、それ以上に、ガチャガチャとレバーをひねり、ようやく動き出す車輪、そのメカニカルな操作、鉄の塊が滑空する無重力感が素晴らしい。

そういえばノーランはこの無重力感というキーワードで語られもしてきたのだ。

 

そっか、ノーランは頭が悪いのではなく、愚直な人なのだ。

愚直に史実にこだわる、CGを排し実物にこだわる、そのこだわりは遂に「ダンケルク」に結実した。素晴らしいと思う。

しかし、真面目な人は時にバカに見えるし、愚直な人というのは時にポカをかます。だから決定的なショットを撮れずごまかしに走るわけだが、そのポカは貴重だと「ダンケルク」を観た私は思う。

一日数10件の閲覧者を誇る極東の1ブロガーはノーランにこれまでの言を謝罪する。すまぬノーラン