フレンチ・コネクション | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

初めて観たのはテレビ(wikiで調べたらゴールデン洋画劇場だった、ジーン・ハックマンは小池朝雄な)。もぉめちゃくちゃ面白かった、というのは嘘で、面白いことは面白いのだが、そう思い入れがあるわけではなかった。
中学生にとっては、ポパイ刑事がハリー・キャラハンみたいなマッチョなまでの正義漢でなく、どうもこのおっさん屈折してる、何か暗い奴、みたいなイメージだったことと、何よりストーリーがよくわからぬものだったというのがその理由ではないかと思う。

その後、DVDでは観ていたものの記憶は薄く、で今回スクリーンで初。

これがもぉ無茶苦茶に面白かった。これまで俺は何を観てたんだと思う。
まず、70年代の中学生が思ってた通り、話がよくわからないてぇのが凄い。

例えば、フェルナンド・レイ扮するフランス麻薬組織の親玉が、その部下である殺し屋にポパイ刑事の暗殺を命じる。次のカットは点滅するパトカーのランプとけたたましいサイレンの音で始まり、ある交通事故現場にポパイを始めとする警察関係者が集まるシーンとなる。
この交通事故をきっかけにポパイは捜査の中止を言い渡されるのだが、この事故で誰が死んだのか、なぜ捜査の中止につながるのかがよくわからぬ。
台詞では説明されてはいるのだがよく判然としないまま次のシーンに移ると、ポパイ刑事が任を解かれた風情で自宅に戻ろうとしている。そこで彼は件の殺し屋に狙撃され、かの有名なカーチェイスへと進んでいく。

あるいは、バーに踏み込んだポパイ刑事とその相棒のロイ・シェイダー刑事はそこから逃げた黒人を追う。黒人は一旦追いつめられるがナイフを取り出し、ロイ・シェイダーに傷を負わせフレームアウト。
次のカットはいきなり走る黒人をサイドから捉えた移動ショット、続いて走るポパイ刑事の移動ショット。この移動ショットへの唐突なつなぎが素晴らしい。

つまり、見せ場だけをつなぎ、見せ場と見せ場をつなぐシーンは、ま、どうでもいい、と。話がそこそこわかればいいと。
しかし昨今のアクション満載、アクションシーンをつないでいればよろしい、といったアクションのインフレと化すことはなく、ジーン・ハックマン=ポパイ刑事の思いやら情念やらはしっかりと筋を通し、その上でそのエモーションが炸裂するシーンとして見せ場を設けるのが素晴らしいのだ。

そしてカーチェイス。犯人が乗り込んだ電車と、その高架下を走る自動車とのチェイス。
自動車の主観で、前方のトラックが不意に車線を変更する。観客の70%が「あっ」と思ったところでカットが変わり、ロングショットでトラックの鼻先をかすめ車が突っ走る様が捉えられる。
トラックの車線変更をちゃんと観客に示すこと、そして「あっ」と思う一瞬の間を用意すること、これが昨今のアクション映画には足りぬと思うのだがどうか。
さらに電車と自動車を同時に捉えた横移動の凄さ、これを撮影するためにどれだけの労苦がかかったことだろう。

ハワード・ホークスは当時娘とつきあっていたフリードキンにこうアドバイスしたと言う。
「人はチェイスのシーンが好きだ。良いチェイスをつくれ」と。

ホークスは見せ場だけで映画をつくること、それが許されるのが映画であると語っているのだ。見せ場だけの映画。そこに映画の面白さ、つまり映画の原初的な秘密が潜んでいるとは思わぬか。
もちろん、ホークスの言うこと、真に受けてはいかぬ。しかも梅本洋一の翻訳だ。