ドラッグ・ウォー 毒戦 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「ドラッグ・ウォー 毒戦」ジョニー・トー

麻薬の小売業者(?)に扮し仲卸業者(?)と対峙した警部は、その男と別れた後、突然、大声で笑いはじめる。仲卸業者の仕草を真似しはじめたのだが、私たち観客は一体何が起こったのか、その事態を受け入れることができない。
また部下の女性も部屋の片隅で服を脱ぎはじめ、地味なスーツ姿から派手なボディコン服に着替えはじめる。
二人は、新たな悪人と対峙するために仲卸業者とその情婦に仮装していたのだが、二人の唐突な行動は私たちを戸惑わせ、またその行動の理由が判明するのは、これからのシーンを待たねばならない。

例えば「ジャッカルの日」で暗殺者ジャッカルは、暗殺の準備をすべくヨーロッパ中を駆け回るのだが、その行動(例えばノミの市で古い勲章や軍服を買うなど)の理由はド・ゴール暗殺の日にはじめて判明することになる。

通常、登場人物の行動は観客が予測範囲内のことであり、たとえその行動の意味がわからなくとも、何か物語上の都合により隠されているのだろうと観客は判断する。ジャッカルの場合も同様だろう。

しかし、警部たちの行動は全く予測がつかないばかりか、肥大した細部として物語の進行を阻害する。それでもやはりジョニー・トーはこのような行動を捉え続ける。
警察は麻薬一味を検挙するために行動する、その行動にブレはない、彼らが何を思い、何を考えているのか、それを捉えることは叶わず、私たち観客はただその行動をのみ見続けることとなる。

最もわからない人物が、組織を裏切り警察に協力する主人公だ。彼はある場面で警察を裏切ることとなるのだが、その翻意が計算されていたことなのか、唐突に裏切ることを決意したのか、それさえもわからない。ただ彼は裏切る。盗聴器を破棄し、組織に自分の立場を告白する、その主人公の姿をのみ映画は捉える。

生起している事態だけを捉えること。警察は悪を追い、悪人は保身をはかる。

ジョニー・トーは微妙だと言い続けてきたのは、トーの審美性、退屈な叙情、ようするにかっこつけてんじゃねーよ、ってことだったのだが、この映画はまるで違う。前公開作「奪命金」もそうだったが、この映画のドキュメンタリー性、即物性は特に素晴らしいと思う。

唯一、主人公の心情が吐露されるシーンがある。仲間たちと再会し食事をしながら彼は唐突に涙を流す。彼は「妻が死んだ」とだけ語るのだが、その涙が本当に妻の死を悲しんでいる涙なのか、仲間を裏切っている懺悔の涙なのか、自己嫌悪の涙なのか、それは決してわからない。彼自身にもそれはわからないだろう。主人公は涙を流しながら酒を飲む。

トーはそれに何ら意味を付け加えることなくただ捉えるだけだ。これまでもトーの食事シーンは素晴らしかったが、こんなに乾いた、しかし叙情的なシーンははじめてだ。
ジョニー・トーの最高作だと思う。