ヒッチコック | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

志の低い映画ではある。評判も悪い。でもとてもとても楽しく、感動しさえした。
イーストウッドのじいさん姿を見たり、薬師丸ひろ子が時々テレビに出てきて「Wの悲劇」を歌うとつい涙ぐんでしまうのと同じような感じかもしれぬが。

今年の始め頃、ヒッチコックの「サイコ」のメイキング映画ができた、ヒッチコックはアンソニー・ホプキンスが演じると聞き、俄然観たくなったのだが、興味は「Darkside of Hitchcock」をどう描いているのかということと、「サイコ」制作にまつわる裏話や50年代末のハリウッドをどう描いているか、メイキングとしての面白さであった。

で、それが実に中途半端。
「Darkside」を描くにあたっての、ヒッチコックの第二の自我としてエド・ゲインを登場させる浅はかさ、夢やら鏡やらを持ち出す胡散臭さ。
そしてメイキングとしても、ヒッチコックが演出するシーンを「Darkside」の現れとしか描かないのは物足りないし、ソウル・バスとのあれこれは無視、パラマウントや映倫との確執もおざなり。

では、何が楽しかったのか。
ようするに「サスペンスの巨匠」としての名のみを利用し、やってることは夫婦のシチュエーションコメディ、そのちょっと変わった版でしかない点にある。

冒頭、下着姿で登場し、着替えながら夫ヒッチコックと会話し、そしてドレスアップした姿でこのシーンを退場する、それまでの見事な時間の流れ。この「着替える」というテーマが女性の自立、夫への反抗を示すのかなんなのか、赤い水着でプールに飛び込むまでの流れもなかなか楽しく、つまり、「ヒッチコック」の名を忘れれば、なかなかしっかりした演出をみせてくれるのだよ。

その中で、例えば背後から走る車を捉えた移動ショットや灯りを点すアクション、寝取られること、といったヒッチコック映画の細部をちょこちょこ挿入するのも楽しい。もちろん着替えることもその一環だろう。またそれがそれ以上の意味をまるで持っていない(それが意図的であったかどうかは別にして)のが楽しいのだ。

ヒッチコックは「快楽の園」を初演出した時の有名なスチールを手に叫ぶ、「この頃のような情熱で映画を撮りたいんだ」と。これはヒッチコックが撮る自主映画なんだと。この言葉には素直に感動した。そして彼の伴侶であるスーパーウーマンとのハッピーエンドに向かって、映画は「Darkside of」も「Making of」もまるで関係なく突っ走る。

「サイコ」の出演者でもある娘パトリシアをまるで無視しているのが、この映画の潔さを示しているように思う。もちろん頭の悪さも同時に示しているのではあるが。