深夜食堂のことなど | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

DVDで「深夜食堂」第一話から第三話を観た。つまらなかった。
まず話がつまらないのだが、それはどうでもいいとして、ちょっと演出で気になるところがあった。

深夜食堂の常連に婚期を逃した仲良しOL三人組がいる。彼女たちは常に並んで同じ席に座り、それぞれ具の異なるお茶漬けを食べては「結婚したーい」とか何とか一斉に叫んでいるわけなのだが、ふとしたことから仲違いし、深夜食堂とは疎遠になる。
しかし、その仲違いがつまらぬ原因だと悟った三人が、偶然、深夜食堂に集まることとなる。
まず一人目が入って来ていつもの席に座りお茶漬けを注文する。続いて、もう一人が入ってくる。

ここで彼女はどの席に座るのか。
仲違いをした人と並んで座ることを躊躇し、いつもとは違う席に座る、あるいは、違う席に座るのはプライドが許さなくていつもの席に座る。
二つの感情の流れがあり、それは共に自然だと思う。

結局、彼女はいつもの席、もう一人と並んで座ることになるのだが、もし彼女がいつもとは違う席に座ったとしたら、もっと演出の幅が広がらないか、と思ったのだ。

確かに、いつもの席に座ることで仲違いする以前と同じ構図をとる、そして以後との差異を際立たせる、というのも一つの方法だ。
しかし、それはカメラアングルを一つの位置に限定してしまう。違う席に座らせれば、会話のニュアンスに応じてカメラ位置も様々にとれる。なにより、違う席から同じ席、あるいは逆へと彼女たちを動かすこともできる。

もちろんそんなことはちゃんと考えたよ、私は熟慮した結果、彼女たちの座る位置を決定したのだ、と言われるかもしれないのだが、いや、問題は、このシーン以前の誇張された演技などを観ていると、単に喜劇的な構図をとることが目的であって、それ以外のことは何も考えていない、安易な演出不在のように思えてしまうことだ。

しかし、オリヴェイラは多分、何も考えていないし、イーストウッドもドリュー・バリモアも何も考えてない。
ブレッソンはぎりぎりぎりぎり考えた上に、多分、最も単純な位置に彼女たちを座らせるだろう。清順もきっとそうだ。
ロメールとストローブ=ユイレはよくわからんが、すげぇ考えている風を装いつつ、えいやで決めている気がしないでもない。
アルドリッチは役者に任せてる気がする。
ジョニー・トーはこの決定権を審美的な絵づくりに求めるとこが駄目だと思う。

つまり、これが映画の才能ということなのだ。
だから才能に自信の持てぬ人は、きっと動かした方がいいんだよ。いろいろやった方がいいんじゃん。

と、この話を前振りに「マイレージ・マイライフ」と「ローラーガールズ・ダイアリー」という素晴らしい二本の映画の話とジョニー・トーの新作の話につづくのであった。