見上げてごらん夜の星を | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

今年はじめて見た映画。以来、まだ映画館に行けてない…。

舛田利雄の傑作「上を向いて歩こう」のラスト、全員の大合唱がシネスコいっぱいに広がると観客の80%が泣く。その理由の30%は歌がいいからで、70%は演出と脚本によるのは間違いない。なぜならこれは映画だからなのだが、それはおいといて、まずこの歌にたどり着くまでのいきさつ、みんないろいろあったけど…、どんと歌いましょう、といういきさつがいいからで、さらにそれらいきさつをどんとチャラにする歌がいいからだ。
こういうとやっぱ歌がいいからじゃん、と言われそうなのだが、実は違う。

いい歌を歌う、というクライマックスがまず先にある、そこに向けてすべてを構成しながら、歌はそれらをエスカレートさせる、あるいはエスカレートすることを予測してすべてが構成されている。
実は、最後は歌えば盛り上がんだろ、という安易な予測だったかもじれないが、それがはまっている。安易な予測も舛田利雄の職人技がもたらした計算だったのだろう。

一方、この映画は盛り上がらぬ。クライマックスの歌は付け足しにしか過ぎない。確かに最後の「見上げてごらん夜の星を」は泣ける。ほろりとする。しかしその感動の80%はいい歌だからだ。

と言いつつ、この映画は悪くない。もちろん番匠義彰は舛田利雄のように非凡ではなく、歌の力と歌と映画の力を知る由もなく、ただ凡庸にドラマを綴るのみだ。
ところが、坂本九や中村賀津雄はその凡庸なドラマからはみだしている。もちろん彼らの芝居はこのドラマにありがちなベタな芝居である。つまり、ある紋切り型をなぞらえ、あるいは誇張する演技でしかない。
しかし、何らかの物語を演じる過剰な芝居は、逆に彼らの生の表情を露呈し始める。茶を飲む、弁当をかっ込む、みそ汁をすする、すき焼きをつつく、あるいは走る、歩く、その過剰さ、そのスピード感の素晴らしさ。
それを60年代の彼らの「青春」だと言ってもいい。
私はなぜかこの映画が60年代初頭の若者を描いたドキュメンタリーのように思えたのだ。


見上げてごらん夜の星を 1963年(S38)/松竹大船/カラー/93分
■監督:番匠義彰/脚本:石郷岡豪/原作:永六輔/撮影:生方敏夫/美術:逆井清一郎/音楽:いずみたく
■出演:坂本九、榊ひろみ、中村賀津雄、菅原文太、山本豊三、清水まゆみ、ジェリー藤尾、伴淳三郎