スラムドッグ$ミリオネア | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

ダニー・ボイルがまともな映画を撮れるわけはないと思ったが、フィンチャーやブライアン・シンガーの例もあり、DVDで観た。何を今更なわけだが、いや、DVDで良かった良かった、これは一目見ればわかる怒り心頭糞駄目映画であった。

例えば悪漢から逃れ貨物列車に乗るシーン。私たちは(どこから光があたっているのかしらないが)逆光のシルエットで右往左往する少年少女の姿を細切れのカットで見るのみで、列車にいつたどり着き、列車までどのくらいの距離があり、悪漢はどこにいるのかは決してわからない。
最もわからないのはその後のシーンで「(逃げ遅れた)少女が自分から手を離した」と主人公が述べるのだが、そんな情景を私たちはまるで見せられておらず、つまり描ききれなかった情景を台詞で説明し良しとする姑息。

あるいは、幼馴染みである盲人との出会い。私たちが観たいのは、唐突な再会を演出する手捌きであり、チャップリンの「街の灯」よろしく、金をくれた男が幼馴染みであることに盲人が気づくいきさつであるのだが、当然のようにダニーはいたいけな観客のささやかな願いを無視する。
美しい夕日が地下道を照らし、盲人と主人公を逆光で捉える、その自堕落なロングショットを自堕落な切り返しの中に自堕落にカットインし、良しとするわけだ。

別にこれらのシーンが特に悪いわけではない。この映画のことごとくが満遍なく駄目なわけで、つまり演出の不在、するべき仕事をちゃんとしないで、物語に程よく適合するなーんとなく美しい逆光やシルエットや望遠ショットによる審美的な画面を細切れカットに潜り込ませて、なーんとなく感動的に映画を作りましょうという。
しかし、当然、そこから生まれるのは形式としてのメロドラマ、メロドラマの形骸でしかない。

さらにダニー・ボイルが最低なのは、そこに現代的な意匠を施すことだ。
つまり、クイズ番組の答えと主人公の人生をリンクさせ、クライマックスは彼が優勝するかどうかで手に汗握らせようという、姑息極まりない作戦。
しかし、哀しいことにそれは単なる思いつきでしかない。企業VPのプレゼンに勝つくらいはできそうな「クリエイティブ」でしかない。あるいは「クイズミリオネア」の企画書に沿った映画でしかない。映画を舐めるな。

また、逆に言えば、このクイズ形式を除けば、この映画には単純極まりなく、しかも恐ろしくヘタクソなメロドラマが残るのみだ。
そしてダニー・ボイルはこの物語を探すために、かつての植民地インドへ赴く。貧乏で悲惨な話を探しにインドへ行きましょう、美味しい映画のネタを探しに発展途上の国へ行きましょう。

この映画にあるのは、恥知らずな帝国主義と演出の不在、それを糊塗する適当に審美的な絵、まさにスペクタクルの跳梁跋扈。みのもんたの顔よりも醜悪。