チョコレート・ファイター その2 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

というわけで、同じ監督の「マッハ!!!」はつまらなかった。体を張ったアクションには目を見張ったが、つまらなかった。階段を上りながら敵を投げ倒していくのを、長い1カットで撮ったシーンは段取り臭かった。映画が体技に負けていたのだ、と思う。

だから、この少女アクションも途中まではかなりつまらなかった。確かに、彼女は凄い。ワイヤーもCGもスタントもない体を張ったアクション、凄い、と思う。しかし、それは映画への賛辞では決してない。

いや、彼女がアクションを起こす動機付けだの「アクション偏向で脚本をないがしろにし過ぎた」だの、そんな紋切り型を言いたいのではない。そんな定型句のような言葉で映画を格付けする輩には、決してなるまい。そんなもんは糞だ、どうでもいい。
「体技」を「映画」に昇華させる、そのためには、やはり「体技」なのだ。今まで言ってきたことと矛盾してるか?いやしておらぬ。
アステアがタップを踏む瞬間、キートンが走り出す瞬間、それは体技と「映画」が一体となった瞬間だ。

しかし、遂にクライマックス、本作のために4年間の修行を積んだ新人女優ジージャーは単なる借金取りのための「戦闘機械」から、復讐する女、怒りの女に変貌する。その一瞬を映画は確かに捉える。素晴らしいのはここからの数10分だ。それで充分だ。

さらに阿部寛が素晴らしい。上背を生かした刀の大降り、それをジージャーは見る。阿部ちゃんは実はジージャーの父親だ。回想だの伏線だの二人の切り返しだの、物語をもっともらしく語る姑息など全くなく、アクションのみによって二人に共闘関係が結ばれる。闘う一家の誕生。これがつまり、体技と「映画」が一体となった瞬間ということだ。どうだ、矛盾してないだろ。

そして女は闘う。雑居ビルの壁面を上下しながら、一つ一つの体技、アクションに怒りと執念がたぎる。
アクションそれ自体が凄いのはもちろんだが、彼女のアクションには明確な意志がある、それは映画が与えたもので、つまり絶望的な復讐だ。

「緋牡丹博徒 お命戴きます」の藤純子のように(惚れた男のために激怒しその死に悲しむ、悲痛なアップのストップモーションでこの映画は終わる)、「昭和おんな博徒」の江波杏子のように、「党宣言」で銃を握る倍賞美津子のように、少女はどろどろの憤怒のアクションをみせる、彼女は泣きながら闘う。「体技」ではない「映画」のアクションを見せるのだ。

だから、やましんさん、これは萌えぬ、燃える。
ステファニー・クレイヤンクールには悪いが、そして深田恭子には悪いが、今年の主演女優賞は“ジージャー”・ヤーニン・ウィサミタナンに決まったぜ.というのは嘘で、やっぱ深田恭子だがな。