フロスト×ニクソン | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

クライマックスまではほんとにほんとに素晴らしい。

役者たちが素晴らしく、台詞がいい。ロン・ハワードはアクティング・ディレクターに徹したように、役者たちをただ捉える。
演技の流れを生かすべくショットを組立て、物語に必要不可欠なインサートをいれていく。
ショットを撮るのではなく、役者を撮ること。

ニクソン邸をはじめて訪れるシーンの充実。窓から見たショットの挿入ぶり、芝生を手入れする男やニクソン夫人の点景から、ニクソンの見た目によるフロストの足元、そして裸足で車から降り立つ女性のカットへと至る流れ。台詞の密度が高く、ユーモアがあり、わくわくする。それは、ロメールを観る時のわくわくだ。

講演を終えた後の、厨房に続く小部屋でのケビン・ベーコンとニクソンの会話。ニクソンが小部屋の中をイライラしながらうろつき、ベーコンはその動きに応じながらの受けの芝居。そのシーンを締めるギャグの素晴らしさ。

飛行機の中でのナンパもいい。フロストの軽薄な笑顔がとてもいい。
フロストのブレーンとなる二人もいい。感情過多な小柄とユーモラスなでぶ、冷静なプロデューサー、そのバランスがとてもいい。「なんだ、あれは小公子か」と。

ところが、インタビュー最終日がつまらないのはなぜ?
つまらない、と言うと語弊がある。つまらなくはないのだが、え、こんなもん?と。こんくらいの盛り上がりで、ロンは満足しちゃうわけ?と。

ようするニクソンが何を言おうと、映画好きには関係ないわけじゃん。ニクソンの話なら本読めばいいわけでね。
映画にとって大事なのは、ニクソンの謝罪や懺悔や後悔や真相の暴露ではなく、あるいはジャーナリズムとは何かでもなく、ニクソンVSフロストがもたらす緊張感なりカタルシスなりユーモアなり、つまり現実とは違う夢の世界なわけだ。

もし、そこにニクソンの謝罪や懺悔や後悔や真相の暴露や、あるいはジャーナリズムとは何かを求めるならば、ニクソンの、いや、フランク・ランジェラ(ドラキュラやったとは思えんな)の表情なり所作、その表層こそが自ずと伝えるべきで、それを意図してもらっても、映画はそう簡単に盛り上がってはくれぬ。

というわけで、メチャクチャに惜しい。
ダックスフントを撫でるニクソン、ベーコンの悔しそうな表情、グッチの靴、執事とのやり取り、このシーン以降再び、いい感じを取り戻すので、ああ、ほんとに惜しい。
いや、こうするしかないだろ、とも思うんだが、アルドリッチならどうしたかを考えよう。