つぐない | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

「つぐない」ATONEMENT (2007/英/123分)
監督/ジョー・ライト、脚本/クリストファー・ハンプトン、撮影シーマス・マッガーヴェイ

虫の音とタイプライターがやけにうるさいので何かと思ったら、前者は少女の心象のシンボリックな表現で、後者は(ラストでわかるのだが)メタ物語の伏線なのであった。

と、水へのこだわりとか、双子の登場とか、視点や時制の交錯とか、なんだか「知の企み」に満ちた映画なのだが、そのことごとくが「映画」に全く関係ねぇ。単なるできそこないのメロドラマに終始するので、久々に怒髪天をついた。
気取ってんじゃねぇ、正々堂々メロドラマをやりやがれ、と。

前半に2度繰り返される時制の交錯、視点の異動は、単に説明を繰り返しているとしか思えず、一つの画面がもたらす情報量や多様性が「映画」にあることを作者は知らないし、また知っていたとしてもそれを回避する。
姑息な恥知らずである。

最後のネタバレがまたくだらぬ。
開巻からタイプライターの音を響かせてまで苦心惨憺、「知の企み」なのであろうが、観客の涙を絞ろうとする腰抜け作戦としか思えぬ。

いや、それならそれで、双子オカマなどは嗚咽をこらえるべく「ハンカチを口に押し込んだ」らしく、まさに作戦成功なのだが、そのような「知の企み」などと気取らずとも、同趣向の素晴らしく感動的な作戦をアメリカ映画は既に展開している。

ジョン・フォードに非礼なので特にそのタイトルは秘すが、例えば「クローバーフィールド」では不幸に終わった恋人たちの幸せな姿を、あっけらかんとラストに示しているし、そういえば後半の巻き戻し、視点の移動は「バンテージポイント」じゃん。

つまり、苦心の「知の企み」はハリウッドが既にほいほいと取り込んでおり、堂々たるエンターテインメントに仕立て上げている。ああアメリカ映画はやはり偉大だ、と。

このような映画への厚顔無恥、さらには形式主義まるだし時代遅れな「美しい」絵造りに、心の底からうんざりした。

少女たちの死体群は「ひめゆりの塔」へのオマージュなのか、病室の赤いカーテンはもちろん増村なのだろうな、長回しの戦場はユニバーサル・スタジオ・ダンケルクなのか、
タイプライターのどアップは「ルパン三世」下ネタ版なのだろう。
ここには、な~んもない。
技巧だけの虚しさ、くだらなさ、ふふふとほくそ笑んでいる夜郎自大に超むかつく。

気取りまくった姑息で恥ずかしい出来損ないのメロドラマは、ほとんど笑えないコメディと化し、映画館を飛び出し家に帰ってアメリカ産のメロドラマが観たくなり、「韻も装飾もなくさ」なきゃなんねぇのは、てめぇだろ、と怒りに身が震えるのであった。どうしてくれよう。