ラザロ 朝日のあたる家 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

つまらないミステリには、証拠やら事件やら証人やらが作者の恣意的に配置され、読者はその道筋をなぞるようにしか読むことが出来ない、という感覚がある。得られる結末もまた作者の選択肢の一つでしかない、というような。
このようなミステリは「ロールプレイング的」とか「どんでん返しのためのどんでん返し」と非難されるのだし、三島由紀夫は「犯人以外の人物は不必要に思える」と評すのだ。

井土紀州の素晴らしさは、そのような選択肢の一つ一つをつぶしていき、これしかないのだ、という究極まで、自分を、登場人物を、物語を追い込んでいることにある。

都会で挫折し故郷に帰った妹と、故郷でつましい暮らしを送る姉、そしてその恋人。三人が抱く状況やらキャラやら何やらを井土は古典的なまでに生真面目に描き、まさに「こうなるしかない」という状況を紡ぎ出す。

小学校の校庭で姉妹が殴り合いの喧嘩をする。妹に馬乗りになった姉の姿を、青空を背景にした極端なローアングルから捉える。それはある種、美しい絵であり、紋切り型の絵としてある。
阿呆と書いて監督と呼ぶ、佐々部清であればそれを審美的、リリカルな絵として捉えるだろう。しかし井土は美学的に閉じた絵としてではなく、あくまでも物語を構成する絵としてそれを撮るのだ。

さらに素晴らしいのは、「状況」を制御する要因に「社会」を持ち込むことだ。
映画監督という名の恥、佐々部清ならば自分の選択肢に折り合うよう「社会」問題を並べ、都合良くそれを解決し、今日もまた「原爆」や「韓国」やらで金を稼ぐのだ。

と、アカデミーこの世から消えてくれないか監督賞、佐々部清を持ち出しても仕方がないばかりか、井土紀州に申し訳ないのだが、それはともかく、

「それじゃ社会が成り立たへん」「世界的な流れの中で俺らは生きてるんや」という台詞が凄いのは、「社会」と「個人」の関係の中でドラマを展開し、その果てに、「私はこう考えたからこうした」のではなく、「こうなるしかない」状況を、個人レベルにおいて、社会的なレベルにおいて成立させ、個人を縛り付けるているからだ。

私もそれを求め、社会もそれを求めている、だから私は「こうなるしかない」ということ。
作者の、あるいは観客の恣意や選択肢を封じ込め、究極の選択へと強いること。その要因の一つに「社会」を求める巨大さ。

しかし、「こうなるしかない」状況は突如、飛躍する。
これは凄い。
おいおい、である。そこまでは、ま、よく出来た人間ドラマなのかもしれない、よくぞ、ここまで、であった状況がどこか逝っちゃう凄さ。あるいは、意識的に、本能的に飛躍をも計算していた凄さ。

登場人物を取り巻く社会を象徴する、シャッターの閉ざされた廃墟のような商店街。選択肢の得られない中を、姉の恋人が歩いていく。彼は既に「こうなるしかない」と定められている。しかし、画面は何が起こるのかがわからない不気味な緊張感に漲っている。
そして妹は姉は恋人はまるで思いもよらない行動に出るのだ。

黒沢清が言う「何か考えて人は行動するわけではない」というのが酷く安易に思えてくる。
そうじゃないだろう。
ぎりぎりまで追い込まれること、しかし、そんなことなかったかのようにポンとどこか彼岸へ逝っちゃう、そんなドラマ。
「こうなるしかない」んだけど、しかし「こうなっちゃたよ~」みたいな物語。

この映画は、何が起こるかわからないサスペンスに満ちている、物語に身を任せる楽しさに満ちている、社会と個人に関わる絶対的な恐怖に満ちている。
加藤泰や森崎東やアルドリッチが成し遂げた物語世界を、今の世に私は観たかったのだ。こんな映画が観たかった。

バーホーベンと並んで、今年のベスト。

ちなみに、これは三部作の最終作らしく、私は前二作を未見。観たい観たい観たい。