SF三題 | 映画、その支配の虚しい栄光

映画、その支配の虚しい栄光

または、われわれはなぜ映画館にいるのか。

または、雨降りだからミステリーでも読もうかな、と。

または、人にはそれぞれ言い分があるのです…。

20年くらい積ん読状態であったSFを読んだ。

■「砂漠の惑星」スタニスワフ・レム
ある惑星で消息を絶った宇宙船、その謎を探る、という鉄板、黄金、正統派。
冒頭、冷凍睡眠から目覚めるシーンが「エイリアン」と全く同じなのに驚いたのだが、それはともかく、アクション、謎解き、冒険、わくわくさせる要素がいっぱい詰まっており、タルコフスキーがいかにレムを抑圧していたのかがよくわかる。今の目で見るとありがちなネタなのだが、その展開の仕方が素晴らしい。


スタニスワフ レム, Stanislaw Lem, 飯田 規和
砂漠の惑星

■「永遠の終わり」アイザック・アシモフ
時間を自由に行き来し、人類が間違った方向に行こうとすると、それを正そうとするある組織、というのがおおもとの設定。
しかし設定自体を動かそうというのではなく、設定に応じて、ぐいぐい繰り出される謎、ツイストが物語を紡いでいくのが素晴らしく上手い。しかもハードボイルド、というかファムファタールねたの、SF的パロディとして成立しちゃう凄さ。


アイザック・アシモフ, 深町 眞理子
永遠の終り

この2作があまりに面白かったので、も一冊読んだ。

■「さよならダイノサウルス」ロバート・J・ソウヤー
恐竜絶滅の謎を探るべく、タイムマシンで過去にさかのぼった科学者の冒険、という鉄板、黄金、正統派。
あるネタを導入することで様々な謎がすぱっと解決する、その面白さは、訳者による解説に詳しい、まさにそのとーり。
しかし、解決がいとも簡単にばらされる語り口など、ネタだけで小説を書いているようなヘタクソな印象がある。
一番問題なのは、そのネタのための人物設定が、どうにも残酷であること。もちろんそれに対するエクスキューズはしているのだが、それも含めて、作者はとんでもなく嫌な奴にちがいない、と思わせる後味の悪さがある。ネタのためには平然と人を踏みにじる偽善者、というか。
あだち充ってそういう奴だと、昔思ったことがあるのだが、それはまた別の話。


ロバート・J. ソウヤー, Robert J. Sawyer, 内田 昌之
さよならダイノサウルス