なかなか幸せになれない人には共通点があるという。
それは「幸せにならない方が都合が良い」ということ。
例えば、不幸せそうなお母さんをさしおいて幸せになることに罪悪感があるせいで、結婚したいのにいつまでもできないとか
友達を作りたいけど、友達ができると傷つけられるリスクもあがるから結局孤独なままだったり
これは無意識だから、本人にしてみたら
「なぜ結婚できないのだろう、なぜ友達ができないのだろう」
と苦しむことになる。
でも無意識の力は強力なので、自分で気付かない限りは外れることがなく、強力にその人の人生をコントロールしていく。
それで、私は何が都合がよくてこんなに不幸なんだろうと考えていた。
何年も考えていたけど答えが出なかったのだけど、やっと答えが分かった
それは、弱い人に寄り添おうとしたからだった。
話は私が小学校に通っていた頃に遡る。
私は、私立のカトリックの学校に通っていた。
結構しっかりした教育方針の学校で、
敷地内に修道院があって、シスターがいて、毎日お祈りをして聖歌を歌い、定期的に礼拝があり、宗教の時間には聖書の勉強をした。
私は音楽が好きだったので、当時歌っていた歌をよく覚えている
その中の一節。
「飢えている人にはいつも 私のパンを分けてあげたい」
「傷つけられたことは もう忘れたから 私の痛みを癒して忘れてください」
「色んな苦しみを笑いながら耐えていける そんな私たちであるように」
曲が綺麗で、ピアノの伴奏も素敵で、大好きな曲だった。
この聖書の価値観を、幼かった私は文字通りに受け取ってしまった。
自分がどんなにお腹が空いていようと、飢えている人にはパンを分けてあげなきゃ。
傷つけられたことは忘れなきゃ。
苦しみに耐えて笑っていなきゃ。
今思えば、文字通りに受け取る必要はなかったし、誰も文字通りには受け取っていなかったのだと思う。
私は純粋すぎたのだ。
飢えている人にパンを分け与えるなんて!
自分がお腹が空いていなかったらいいけど、例えば自分も何日も食べていない状況で、隣の人にパンを分け与えることなんてできるだろうか。
無理に決まってるし、そんなことしなくていいよ。
しかし、私は自己犠牲の精神をしっかりと受け取った。
小学生の私は、マザーテレサが大好きだった。
マザーテレサは、「これらの最も小さい者の一人にしたのは、私(イエスキリスト)にしてくれたことなのである。」
という聖書の一節をもとに、
「貧しい人の中でも最も貧しい人に仕える」という理念のもと、インドで貧しく死んでいく人に仕える活動をする。
路上で死んでいく人の汚い体に触れる時、「私たちはイエス様の体に触れているのよ」と言う。
いつのまにか私は、「最も貧しく不幸な人に寄り添う人」「自分の全てを与える人」になっていた。
困っている人を放っておけなくて、
母親の愚痴(父の悪口)に長い時間付き合い、一人でいる子に話しかけ、心に傷を負った人の話を聞いて励まし寄り添った。
評価されないのに大変な仕事を率先して引き受け、理解が遅い人には何度も何度も噛み砕いて説明した。
無意識にそうやってずっと生きてきた。
イエス様のように、自分は弱い人と共にありたいと思った。
弱い人の痛みを分かりたかった。
(そうしないと、仕えることはできないから)
いつも残り物を選んだ
私が幸せになったら、不幸な人たちは取り残されちゃう。
その人たちの面倒は誰が見るの?と思っていた。
今思うと、うーんという感じ。
あなたが助ける必要ないよ。
てか、あなたは神じゃないし!
聖書だって文字通りに受け取らなくていいの。
大学時代はクリスチャンの友達がたくさんいたが、
みんな同じもの同士で固まっていて、困っている人と友達になろうなんて人は一人もいなかった
イエス様は娼婦と友達だったのに。
献金するといっても、お金持ちで働いたことがない人ばかりだった。
私は苦学生で、貴重なバイト代を捧げていたのに。
みんな口だけだなと思った
でも、それで良かったのだ。
何と言うか、それは本音と建前で、聖書を文字通りに受け取らなくて良かったのだ
その証拠に、私は今幸せになっていないのだから。
結局何も強制されていなかった。
私は、誰にも遠慮せず幸せになって良かったのだ。