私は台湾製の安い楽器で、
音楽好きの母が思い切って
新品を購入して貰って、
トランペットを吹き始めた。
それを高校を卒業して、
音楽大学受験に耐え得る
品質の3代目はさすがに
2人で協働で楽器を購入した。

私は結局、中学・高校の
6年間と音楽大学受験のための
浪人期間新聞配達を
してお金稼いだ。

当時父母は離婚してしまい、
男3人兄弟を独りで文字どうり
倒れるまで働き通しの母には、
余裕はなかった筈だった。

大学生になってからは、
専門の高価な楽器は
演奏と奨学金制度を
経て得られるお金を
生活費、学費を差し引いて
工面した。
幸いな事に、演奏の仕事でも
かなり稼ぐ事が出来た。

母が倒れてからは、一時的に
兄弟3人で埼玉の同級生の
お父さん所有の一戸建てに
住んだりもした。

恩師の支援の甲斐もあって、
実技の成績も良く、入学出来る
ことになった私立の音楽大学の
奨学金を、入学時、3年次に
受ける事ができ、
留学まで経験する事ができた。

母の愛は、音楽を続ける
大きな助けの一つになった。
ソシアルダンスが好きな、
母の大好きな音楽にも
トランペットが
良く独特のサウンドで
録音された物があった。
(当時、家でラジカセ、
レコード、ミュージック
テープCDと音の出るものは、
頻繁に聴いていたの今でも
良く覚えている)

気紛れで何事も長続きした
試しのない、私のような
男の子をよくも根気強く、
援助を続けてくれたものだ。
押し付けがましい事や、
怨みがましいことは一度も
言われた記憶はない。

母1人親、男3兄弟では
あったが、結構楽しい
思い出がある。
今でも当時を懐かしく
思い出され、兄弟も仲が良い。

音楽をこの歳までに情熱を、
失わずに続けて来れたのは
私にとって幸せなことの一つだ。

放課後の音楽室。
学校訪問の楽器商がケースから、
白手袋をして丁重に取り出された
まだビニール袋にくるまれた、
キラキラ光るトランペット。
同じくらい目をキラキラさせて、
息もする事を忘れたように
見入る子供達。

おじさんに言われた通りに何だか、
良くは解らないけれども
「とにかく、息を楽器に
吹き込んでご覧」と言われるまま
ヒヤッとする金属性の楽器の
「意外に重たいなぁ」という
生まれて初めての感触。
真新しいプラスチックや、
糊の入り混じった様な独特の
匂いがヤケに鮮明に
記憶に残っている。

心臓の動悸を抑えつつ、
興味いっぱいで見つめる
仲間達の前で1人ずつ、
試して行く。
「コンなんで、本当に音なんて
出るのだろうか?」
気恥ずかしさと、意思に
反して思わす音が出た時の
言い様のない
衝撃と高揚感。

今でも当時の細部まで
覚えていて、同じ様に初めて
楽器に出会う
子供達一人一人に、
そんな特別な
でき事であって欲しいと願う。

決して器用な資の子供では
なかった。

どちらかと云うと
朝日昇りきらない早朝から、
日のトップリと暮れた黄昏の
時間迄泥んこになって、
遊ぶのが大好きな
子供だった。

唯、溢れるような
好奇心はあった。