感情に名前をつける。とか | グリーフという愛のかたち

グリーフという愛のかたち

2018年秋 20歳の娘が天に還っていきました 

気持ちの整理をつけるには
まず
今の感情に名前をつけましょう
と聞いたことがあります

今 感じているのは
哀しみ? 怒り?

名前をつけたら
その感情を思う存分
味わいましょう
… と続くのですけれど


 ふと。
 それって要らないかも
 と感じたんです


そもそも
気持ちの整理をつける
ということすら
要らないかも って


私の場合なのですけれど
名前をつけられるほど
感じる想いがシンプルなこと
ってあまりありません

だから名前をつけようとすると
感じている感覚のどこかを
削いで
おおよそコレ!という感覚を
ピックアップしています

そして
ピックアップしたそれを味わう
みたいな
なんというか…
感覚全てを味わうのではなくて
名前をつけた感情を
自分の今の感覚だと思い込む
みたいな
そんなことをしている気が
したんです


例えば
嬉しいけどちょっと不安で
でも期待もあるし…
のような感覚のとき
嬉しいをピックアップすれば
感じたちょっとの不安を
なかったことのように隠して
「私は嬉しい」と思い込んだり
して。

 あ。コレ違うわ
 って感じたんです


イヤだけどイヤと思いきれない
とき
途中から感覚ではなく思考に
移行している気がしたんです

前投稿の父の話で言えば
ああいった言葉を
ヘーキで吐けるニンゲン
を私は好みません

でも
親であるヒトに
好意でない想いを抱くのって
どうよ? みたいな思考が
働き出して
悪気はないんだし とか
父も父なりに苦労したし とか
そんな日もあるよね とか

いろんな場面から
善な答えを見つけるための
材料を探してくるんです

そんなときの私は
ひとりぼっちになった老親
に対して
どう接するのが善か。
が発動しています

 感覚ではなく思考。
 であります


気持ちの整理なんて
つけようと努力するものでは
ないんじゃないか…
そんな気がしてきたんです

それもこれもひっくるめて
よくわからないけど
なんだかしょんぼりな心持ち。

でいいのかも


 それが今のわたし
 グラデーションな感情のまま
 ムリに整理することを
 しないでいたら
 どーなるでしょうね

 
 

ちょっと記しておこうと思いました
なんとなく
私にとってのヒントのように
感じたから