人間:ミクロコスモスとマクロコスモス(4) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ベルジャーエフ 『創造の意味』ノート/第2章

 

ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(7)-4

(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味  弁人論の試み  青山太郎訳 行路社発行による。)

 

第2章 人間:ミクロコスモスとマクロコスモス

 

(テキスト:p.66)

 「人間の自然を超えた自己意識は、自然世界によっては説明不可能であり、この世にとっては常に謎である。自然世界には、人間の高次の自己意識にまで自らを成長させる能力はあるまい。・・・・・低次のものから高次のものは生まれたことがない。」

 

ーーー これは勿論、生物学的な人間進化の問題ではなく、人間精神の問題、人間が抱く価値観の問題である。人間の精神性や高次の価値観は、高次のものによる教育を通して、その高次性を開花させる。

 ベルジャーエフは『わが生涯』(白水社刊「ベルジャーエフ著作集第8巻」)の中で、「私は自然ならびに社会や文明に対する精神の優位を主張する。「自然」、変容せる自然ではない自然は、必然性である。・・・・・私は断固として、自然という象徴表現ではなくして、精神という象徴表現を用いることの方を選ぶ。」(p.143〜144)と述べている。

 彼にとって精神は、「存在」ではなく「霊性」を意味していると思われる。この場合の霊性とは、「神と人間との合一」のことである。つまり自然の人間、生まれたままの人間には、彼が言う意味での精神、または精神性は存在しない。神との合一において初めて開花する人間の性質である。

 

ーーー また彼は同書の中で述べる;「自然」、「生」、「本能」、「集合的・元素的なるもの」は私にとっは決して「神格」ではなかった。真理が、万物に冠絶する真理が、私にとって神であった。しかし真理は受肉すること、人間になること、が可能である。

 

ーーー 簡潔ながら、ベルジャーエフ哲学の立場が明確に語られている。彼は何よりも「生の意味の探求」が、根源的な彼の立ち位置なのである。自然、本能、政治、平均的大衆人間、必然性などを超えたところに、あらゆる解放に結びつく正義が、神的な光が存在している、と主張する。

 

 

(テキスト:p.67)

 「自らを自然世界の一部分として認識することは、人間意識の二次的要素にすぎない。人間がそれ自体として存在し、自らを自然外の、世界外の事実として体験することこそ、一次的である。人間は、自らの心理や生理よりも深く、根源的である。

 

ーーー われわれは、この「人間は自らの心理や生理よりも深く、根源的である」、それゆえ、「人間がそれ自体として存在し、自らを自然外の、世界外の事実として体験することこそ、一次的である」ということを自覚し、それに確信を持つのは、どのようにしてなのであろうか。それは、それを自覚し、確信的に生きる具体的な人格に出逢うことによって、である。そのように実際に確信を持って生きる人物に出逢い、その人格から共生的に人生の生き方を学ぶことにおいて、初めて心理や生理よりも深く、根源的な人間の生き方の探求が起こる。そして、そのような出逢いは、仏教的にいう「有縁(うえん)」によってであるとわたしは確信する。

 

 

(テキスト:p.67)

 「自然的必然性への転落と世界での仮死状態(*『創世記』におけるアダムとイヴの神の世界からの転落、そしてそれ以後の人間世界全体の歩み)ののち意識を回復した人間(*預言者からキリストに至るまでと、それ以後の使徒たちなど)、つまり〈絶対的人間性の保持者たる全人〉は、自らの限りない本性を意識するが、この本性は、時間の内なる達成によっては渇きを癒やされ得ない。

 人間の生にあって無常ならぬものはものはなく、一切が永遠を否定する。」

 

ーーー 人間が、この自己意識を持っているという事実は、ベルジャーエフが言うように「自然世界のみが唯一の完結した世界であるという外見的真実への、唯一にして強力な反駁である」となる。そして、「人間は、その本質からして既に自然世界の破綻である。人間は世界の内には収まりきらない」、という認識に達する。

 そして、「この自己認識は自然世界を超越しており、自然世界によっては説明不可能である」。しかし、重要なことはこの認識が、単なる論理的な帰結や厭世的な感想ではなく、社会内体験としての「真実を求めてギリギリに生きる」果てに、認識されるものでなければならない。言葉だけの学習では、以下の探求へは続いて行けない。

 ベルジャーエフの場合は、第2次世界大戦下におけるソヴィエト共産主義体制の元での、ギリギリの彼の生き方の探求があったからである。わたしはこれを、「生と死の挟間(はざま)を生きることによって開ける人生の《道》」として位置づけている。これを「生き様において突きつけてくれる者」が、「わたしにとっての師」である。この出逢いを、わたしは「有縁の関係」であると呼ぶ。

 

 

ーーー そして、確信的なのは次に続く彼の論述である。

 

 

(テキスト:p.67)

 「(*人にして神、神にして人である)キリストについての啓示のみが、人間の自己意識の奥義を開示する手がかりを与えてくれる。人間の高次の自己意識は、あらゆる学的認識にとっての絶対的限界である。学が完き権利を持って認識するのは、自然世界の一部分としての人間のみであり、人間の自己意識の二重性において、学は限界に突き当たる。」

ーーー *「人間の自己意識の二重性」とは、「自らを自然世界の一部分として認識すること」と、「人間がそれ自体として存在し、自らを自然外の、世界外の事実として体験すること」、の二重性である。

 

 

(テキスト:p.68)

  「人間論的哲学は、この宗教的啓示を権威あるドグマとしてではなく、自らの自由な直観として掴み取る。」

 

 

ーーー この箇所は大変重要なことだとわたしは捉えている。キリスト論を宗教としてではなく、自由な探求の直観として認識できるかどうか。宗教は権威であり知識の伝承だが、自由な直観は「生の探求における深まり」の問題であり、生の探求におけるキリスト論のみが「宗教の布教」ではなく「生き方の継承と発展、そしてその深まり、先鋭化」になると、わたしは捉えるのである。