ベルジャーエフ 『創造の意味』ノート/第2章
ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(7)-3
(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味 弁人論の試み 青山太郎訳 行路社発行による。)
第2章 人間:ミクロコスモスとマクロコスモス
(テキスト:p.66)
抗い難い自然環境にあらゆる点で従属する自然の1細片が、敢えて自然に抗して立ち上がり、敢えて自らの権利を主張するに至ったとは、まず考えられない。人間の自然を超えた自己意識は、自然世界によっては説明不可能であり、この世にとっては常に謎である。自然世界には、人間の高次の自己意識にまで自らを成長させる能力はあるまい。
これは、コスモスの側から、神の側からの啓示を受けた人間にして初めて言えることであり、天啓を受けなければ単なる思考の受け売りにすぎない。
ここでは、ベルジャーエフ以上に、関根正雄氏の次の見解が核心を突いている;
”神の方から姿を現され、その神にふれて一度死んで再び生かされたということが、聖書の中心であり、「神から人へ」か、「人から神へ」かが、旧約思想の理解の上で根本的に重要な区別である。”(関根正雄「古代イスラエルの思想」講談社学術文庫、p.91より)
ここでの「神から人へ」という表現が、人間が「啓示を受ける」という状況を言い表し得ている。
以上を踏まえた上で、ベルジャーエフの次の認識は天才的である。
(テキスト)
しかし自らを自然世界の1部分として認識することは、人間意識の二次的要素にすぎない。人間がそれ自体として存在し、自らを自然外の、世界外の事実として体験することこそ、一次的である。人間は、自らの心理や生理よりも深く、根源的である。
自然的必然への転落と世界での仮死状態ののち意識を回復した人間、つまり絶対的人間性の保持者たる全人は、自らの限りない本性を意識するが、この本性は、時間の内なる達成によっては渇きを癒され得ない。
ここでの彼の論考は、やや「人から神へ」の傾向が強いようにも見えるが、「絶対的人間性の保持者たる全人」の発見は驚くべき認識であり、かつ「人間は、自らの心理や生理よりも深く、根源的である」と述べるに及んで、ベルジャーエフは現代精神の限界を完全に乗り超えていると言えよう。
現代の、「癒し」も「救い」も「悟り」さえも、すべてが人間心理と生理の範囲内の問題である。心理的安心感と、生理的心地良さを求める思想にすぎない。それらのどれもが、新たな次元の世界創造を追求するものではなく、やがて退屈さに飽き飽きしてくるか、日常の中に埋没していくであろうことは、時間の問題だと思われる。関根氏が言う「神から人へ」は、この日常性の完全な超克であり、「絶対的人間性の保持者たる全人」は、時間を超えた新たな世界創造の「基底」になるものである。なぜなら、新たな世界創造には莫大なエネルギーが要求されるからである。そういう意味では、凡庸さを好む人間意識では創造的にはなれない。創造的に生きようとするとき、凡庸さは邪悪にさえなる。
(テキスト:p.69)
普遍妥当を旨とする公認の哲学者たちは、神秘的・オカルト的哲学をあくまで無視したがるが、人間をミクロコスモスと見る真の教説はこの哲学の内にのみ開示されたのであり、ここにおいてのみ人間は、自分自身の奥義に与ったのだった。
ある意味、ここはベルジャーエフの考えの核心である。「人間をミクロコスモスと見る真の教説」は、神秘的・秘教的哲学にのみあると彼は語る。人間の、自分自身の奥義に与れるのは、公認の哲学にも神学にもなく、神秘主義(ミスチカ)哲学だけにあると言う。これは非常に挑戦的な、激しい言説である。われわれは、以下そのことを明らかにしていかなければならない。
(テキスト)
神秘思想(ミスチカ)において、人間は自然世界による被抑圧状態から自由になる。オカルト的教義の大部分が有する最も強力な側面とは、人間がひとつのコスモスだという教えであり、コスモスが巨大な人間だという認識である。
人間の内に生起する一切が世界的意味合いを有すること、それがコスモスの内に刻み込まれることを立派に理解したのは、神秘主義者たちのみである。彼らは、人間の魂の力がコスミックであること、人間の内には世界のあらゆる成層・あらゆる組成が啓示され得ることを知っていた。
ここにおいて、前段での神秘思想または秘教的哲学の内に、人間はミクロコスモスであり、コスモスが巨大な人間だという認識が、開示されたと説く。そして、それが人間にあるがままの世界(自然世界)の抑圧からの自由をもたらすと言う。この解明は、ヒューマニズム哲学が説く人間論よりも、ずっと深いとわたしは思う。
(テキスト)
人間は完き小宇宙であり、大宇宙のすべての質を自らの内に包含しており、自らを大宇宙に刻みつけ、また大宇宙を自らに刻み込む。神秘主義者たちの心理学は、常にコスミックである。例えば、この心理学にとって怒りとは、人間の魂の衝動であるばかりか、コスモスの衝動でもある。
ベルジャーエフ の言う神秘主義者たちとは、ヤーコプ・ベーメを中心とするその流れに結びつく神秘主義思想家たちである。
そして、彼が「例えば、この心理学にとって怒りとは、人間の魂の衝動であるばかりか、コスモスの衝動でもある」と言うとき、これは驚くべき人間論であり、彼が神人キリスト・イエスと紛れもない神秘的結婚を実現していた証左であろう。
(使徒パウロ像:スペイン)