ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(6)
(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味 弁人論の試み 青山太郎訳 行路社発行による。)
序章:創造的行為としての「哲学」(3)
4. 創造的認識行為としての哲学
限界と障害を克服していく「創造的認識行為」は、自らの認識行為を確固として信ずる者、分裂を知らぬ完き者によってのみ為され得る。
創造的哲学とは独断的哲学であって、批判的ないし懐疑的哲学ではなく、全一的なる哲学であって分裂した哲学ではない。
本来の独断的哲学とは、選ぶことを恐れなかった哲学、また自らが選んだものに意識を傾注し得た哲学であろう。独断的哲学とは、恐れず敢行する哲学者、創造しゆく哲学である。創造者は常に独断的であり、常に大胆に選び、選んだものを大胆に肯定して行く。
哲学とはエロティックな芸術である。エロチカを欠いた哲学者たちは、学的形態に一層接近し得るが、彼らの哲学には創造的洞察がない。哲学は、「認識という婚姻の奥義」(※認識によるマクロクスモスとの婚姻ーー管理人)を目指して邁進する。
哲学的認識において説得力を有するのは、「創造的直観」であって、推論的思惟の論証法ではない。哲学にあって真理は提示され、定式化されるのであって、論証され、根拠づけられるのではない。
哲学の任務は、直観のロゴス化(※定式化とその総合ーー管理人)である。
哲学的認識が人々によって共有されるためには、人々の生ける交わりが最大限に濃密となることで、一定の段階に達していなくてはならず、「選び取る愛の連帯性」が、「一致」が、なくてはならない。「意識の連帯性」こそ、唯一の認識的愛である。
連帯的意識にとって、論証は必要ない。論証が必要なのは、愛の対象を異にする人々、異なる直観を有する人々にとってである。論証がなされるのは、真理の敵に対してであって、真理の友に対してではない。
「人間」は哲学に先行し、人間はあらゆる哲学的認識の前提である。
人間を駆逐しないロゴスとは、それ自体絶対的人間(キリスト)であるようなロゴスのみである。それゆえ、人間が救われ、確たるものとなり得るのは、キリスト=ロゴス的意識の内においてのみである。
人間主義から結果する相対主義、哲学にとってかくも破壊的な相対主義を免れるには、別の道が開けている。すなわち人間そのものの地位を高め、人間を絶対化する道である。人間を宇宙の至高の中心、絶対的実在の似姿、自らの内にすべてを包含するミクロコスモスと認めることである。そうすれば、人間は哲学的認識の相対的前提ではなくなり、この認識に揺るぎない確実さを付与する絶対的前提となるであろう。そうすれば、哲学は人間の創造的認識力、世界を支配する認識力と解されることになろう。
哲学は人間の創造による支配力であり、学は服従による支配力である。
閉ざされた個的存在(※個別的精神ーー管理人)としての人間の諸様態は、つまり心理は、哲学的認識の源泉たり得ない。心理主義は哲学の死である。人間は哲学的認識の心理的前提ではない。哲学的認識の源泉たり得るのは、人間のコスモス的・普遍的様態のみであって、心理的個的様態ではない。
コスモスの組成の、具体的にして創造的な把握は、人間の内にあり、また人間の内にしかあり得ない。なぜなら、コスモスの内なるヒエラルキーの最高段階としての人間は、全コスモスと血のつながりを有するからである。
哲学こそは、コスモスの内での、自らの支配的・創造的役割に関する、人間の自己意識である。哲学は被抑圧状態からの、認識による解放である。
人間の内に世界的ロゴスの如何なる痕跡も見ない者は、心理主義と相対主義に陥らざるを得ない。哲学は宗教とは異なり、神の啓示ではない。哲学は人間の啓示である。しかしその人間とは、ロゴスに、絶対的人間(キリスト)に、全人に関与する人間であって、閉ざされた個的存在ではない。哲学は人間の(※全人による)創造的努力を通じての、人間自身の内なる至賢の啓示である。
真の哲学的直観と哲学的洞察において、人間は宇宙と一致し、人間の探究は同時にコスモスの探究となる。人間というミクロコスモスの内には、宇宙なるマクロコスモスがある。
マクロコスモスの奥義は、しつこくまといつく外見的必然性を一掃する人々、ミクロコスモスを通して、絶対的人間(キリスト)の自由を通して、マクロコスモスへ迫りゆく人々にのみ開示される。
哲学の源泉はアリストテレスでもカントでもなく、実在そのもの、実在の直観である。実在の直観を有する者、その哲学が生ける源泉を有する者のみが、真に哲学者たり得る。本物の哲学は、実在との直接的な交わりの道である。
(※われわれに、なぜ哲学が必要なのか。何をもって哲学というのか。哲学は世俗世界に何をもたらすのか。ベルジャーエフの的確かつ簡略な哲学論は、見事という他はありません。「創造的認識行為としての哲学」の項、終わります。)