ベルジャーエフ「創造の意味」(5) | ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ『創造の意味』ノート

ベルジャーエフ論のメモですが、管理人は自分の生きる道として、「秘儀参入のタロット」を揺るぎなく確立しており、あくまでもその立場から捉えるベルジャーエフ論であることをお断りしておきます。

ベルジャーエフ著作集4「創造の意味」より(5)

 

(※テキストは、ベルジャーエフ 創造の意味  弁人論の試み  青山太郎訳 行路社発行による。)

 

序章:創造的行為としての「哲学」(2)

 

 

3. 「哲学」とは?

 

 何よりもまず、そして如何なる場合にも、哲学は「実在の総体の内なる全般的自己定位」であって、実在の個々の状態における部分的自己定位ではない。哲学が探究するのは究極の真理であって、個々の真理ではない。「哲学」は「ソフィア・智」を愛する。真の哲学の原動力は「ソフィア・智」である。「哲学的意識の頂点」において「智・ソフィア」は人間の内に歩み入る。「学」はその基礎と原理の上で、そしてその根源と頂点において、「哲学」に依存し得るのであって、決してその逆ではない。

 

 天命を有する真の哲学者たちは、あるがままの世界を超える至賢の真理の探究者であった。

 

 「智」による認識は、論理的認識よりも高い。哲学は世界の与件からの「認識による脱却」であり、世界の必然性に打ち勝つ『洞察』である。世界の与件が課する限界、世界の必然性が課する命令は、哲学にとっては何の拘束力も持たない、と大胆に言い切る覚悟が必要である。

 

 哲学は、世界がわれわれに如何なるものとして与えられているかには関わりがない。何故なら哲学が探究するのは世界の真理であり、世界の意味であって、世界の与件ではないから。そして、たとえわれわれに与えられている世界が唯物論的であるとしたところで、哲学が唯物論でなくてはならぬ理由はない。哲学の真のパトスは、常に実在の必然性全体と所与の状態全体に対する、創造的認識の果敢な戦いであったがゆえに、また哲学の課題は、常に限界を踏み越えることであった。

 哲学は創造であって、順応や服従ではない。

 

 人間精神の創造的行為が、哲学において自らを解き放つのは、認識による世界への対応によって、つまり認識によるあるがままの必然的世界に抵抗することによってであって、世界に順応することによってではない。

 

 哲学は芸術であって、学ではない。哲学は認識の芸術である。(※「哲学は認識の芸術である」ーーこれほどの至言を、管理人は他の誰からも聞いたことがない) 哲学が芸術であるのは、それは「創造(的行為)」だからである。哲学は芸術である。何故ならそれは、特殊な天分と天命を前提とし、そこには詩や絵画に劣らず創造者の個性が刻まれるからである。しかし哲学が創造するのは、実在に関わる諸理念であって、形象ではない。

 

 哲学は諸々の理念の創造による、自由の内なる「認識の芸術」であり、これら理念は世界の与件と必然性に対抗し、世界の「超越的本質」へ投入する。

 哲学の歴史とはつまるところ、人間精神が自己を意識して行く歴史であり、実在の総体に対する精神の、それ自体完結した対応の歴史である。

 

 普遍妥当性の問題は、論理の問題ではない。これは精神の交わりの問題、人々の普遍的調和の問題、全一性を回復した精神の問題である。(※生の探求者に、「存在の変容」が起こるほどの探求が必要であるーー管理人)。

 

 交わりを断たれた人々にとっては、数学や物理学の真理が拘束力を持ち、自由についての真理、世界の意味についての真理は拘束力を持たない。赤の他人同士は、あらゆる真理を互いに証明し合わなければならない。学は世界の所与の状態への順応であり、その普遍妥当性は、世界の必然性に基づく低次の凋落した交流形態の表れである。哲学の普遍妥当性は、はるかに高度な交流形態を前提とする。何故なら、哲学的創造は世界の必然性を果敢に克服するが、これは少数の人々のみのなし得るところであるから。哲学者の直観は、普遍調和的精神によって検証される。

 

 実のところ「直観」とは、世界への、世界の本質への、「交感」による没入であり、透入であり、それゆえ人々の普遍調和を前提とする。

 普遍調和性、融合性、普遍性の規範は、量的規範、多数者の規範ではない。普遍調和性は意識の「質」である。

 

 「形而上学的直観」とは、これはもうあらゆる与件の限界外にある「別の世界への投入」であり、あるがままの世界を、別の世界の病める1部分に過ぎぬものとして把握することである。

 さらに哲学者の直観は、事物を普遍的に感受し得る天才性を前提するがゆえに、「学」ではなく「芸術」である。

 

 学的哲学とは大学的哲学であり、講座的な自己保存の本能によって、がんじがらめにされている。ところが「認識」とは「生」であり、実在の内なる運動である。認識の内には世界が開花する。(※「芸術とは世界の開花」でなければならず、ただあるがままの世界の表現に終始してはならないーー管理人)。

 

 受動的知性の真理なるものは、そもそも存在しない。これは抑圧され、自立し得なくなった精神の、知的あらわれに過ぎない。

 

 「真理」は精神の創造的活動にのみ啓示されるのであって、それ以外のところでは到達不可能、把握不可能である。

 絶対的人間(キリスト)こそが真理である。真理とは、在るところのものではない。あるがままの状態として、不可避のものとして、押しつけられてあるものではない。真理とは、認識者の内なる実在の模写、反復ではない。

 

 「真理」とは、実在に意味を与えることであり、実在を解き放つことである。真理は、実在の内なる認識者の、創造的行為を前提とする。(※真理が啓示されるのは、鈍化したこの世界と創造的に戦う探求者に対してだけであるーー管理人)。

 真理は意味であり、意味を否定することはできない。世界の内なる意味を否定することは、真理を否定することであり、「闇」のみを認めることである。真理はわれわれを自由にする。「自由」を否定することは「真理」を否定することである。

 

 哲学は夢想ではない。行動である。哲学が衰弱に陥っているのは恐るべき病ゆえであり、その病とは、「反省と分裂」の病である。だが「反省と懐疑」は、哲学からその「創造的・能動的な性格」を奪い、哲学を受動的なものとする。反省する者、疑う者は、世界にあって能動者たり得ず、「fighter 戦士」たり得ない。