「刀伊の入寇」は、寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて、女真の一派とみられる集団を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、さらに九州に侵攻した事件です。

 刀伊とは、高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)である東夷(とうい)を指す「とい」に、日本の文字を当てたとされています。この事件に関しては『小右記』に詳しく書かれています。

 刀伊の襲撃は、当時の平安貴族たちがいかに地方統治に無関心で無能だったかがわかる象徴的な事件であり、平安貴族の権力闘争や優雅な儀式とは裏腹な地方の人々の様子を垣間見ることのできるなかなか興味深い出来事だと言えます。

 この事件の際、太宰府の実質的な最高責任者だった藤原隆家は、裏で指揮をとるだけでなく、自ら戦場に赴き、積極的に刀伊へ戦を仕掛けていきました。そして、逃亡する刀伊を船で追い、追撃戦を行うことも忘れませんでした。このような活躍により、日本はこの危機を乗り越えることができました。

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