三好長慶 | 春空に一息 

春空に一息 

いつも大変有難うございます。
日頃
心に残った事を、
書いていきたいと思います。
(旧ブログ名 ひめたんとほっとTea Time)

今日も来て下さり有難うございます。

堺市の南宗寺(なんしゅうじ)に来ています。 

三好長慶公の銅像です。

桐の紋です

(天皇から、桐の紋の使用を許されていた

事がわかります。)

ここ南宗寺は、

長慶が、父の元長の霊を弔うために開いた菩提寺です。

元々はここから2駅ほど離れた場所にありましたが、大阪夏の陣で焼失してしまった為、こちらに再建されたとの事です。

歌連歌

ぬるき物ぞといふ人の

あづさ弓矢のとりたる者なし

長慶が詠んだ歌です。。

 歌や連歌を「軟弱だ」とか言う人に限って、戦もだめなのだ

という意味だそうです。

長慶は、紫式部や清少納言も研究していたそうです。

枯山水庭園です(古田織部作との事です)

八方睨みの龍の天井画のある仏殿はありました。見事な龍の天井画でした。

写真はちょっと無理そうで、お参りし、疫病が収まるよう祈りました。

南宗寺では、当時茶の湯や連歌の会が催され、多くの武士や商人、茶人や僧侶が、身分を超えて集まったそうで、サロンのようだったそうです。

武野紹鴎(たけのじょうおう)という豪商が、詫び茶を教えて、千利休も、こちらで修行をしていたそうです。

千利休と長慶は、同い年で、共にこのお寺で茶の湯や禅を学んだそうで、

このお寺に、利休のお墓もあるそうです。

長慶は連歌の達人でもあったそうです。

(連歌は前の人が詠んだ句を受けて作るので、簡単じゃないみたい)

当時の堺は、南蛮貿易や明との貿易で栄え、

「東洋のベニス」と言われるほどの繁栄だったそうで、ここに長慶が菩提寺を建てたのもわかります。



前回の続きですが、

11歳で、父と別れてしまった長慶。

12歳で家督を継ぎ、

何と父の仇である晴元に仕える事になります。

以下、ちょっと時系列に書きますと・・

1539年、力が次第に認められ、越水城(西宮市)城主になります。

讃岐や淡路島、阿波には長慶の弟たちがいて、兄弟で力を合わせて大阪湾の港を支配し力をつけていきます。

1549年、とうとう細川晴元を破ります(江口の戦い)

1553年には将軍足利義輝に勝利。(霊山城の戦い)

義輝を近江に追放し、越水城は松永久秀に譲り、自分は芥川城(高槻市)に居城を移し、将軍を擁立しない京都支配を実現しました。

1558年、正親町天皇は、長慶と相談して元号を「永禄」に改元。長慶は将軍に代わる支配者となります。

勢力圏は畿内9か国と伊予、播磨、若狭、丹後の4ヵ国に及びました。

1560年、芥川城を息子に譲り、飯森山(現在の大東市あたり)に居城を移します。

これで政治の中心は飯森山城に、経済の中心は堺に、京の支配は芥川城の義興にと、支配体制を確立します。


ここまでは良かったんですが・・

運命というのは、思い通りに行かないものです・・

その後、弟が亡くなったり、頼りの息子が亡くなってしまったり・・

ついに長慶も病に伏し、1564年に亡くなってしまいます。43歳でした。


長慶の死の4年後、

芥川城に、織田信長が現れたそうです。

芥川城に、10日あまり滞在したそうです。

その目的は、

自分達は三好氏の後を継ぐ後継者、次の支配者だと言うことを、世にアピールする為だったとの事です。

信長は長慶の事を相当意識し、ずっと注目していたと思われます。


そして時代は、信長の天下へと移っていくわけです。

これが阪堺線です。
チンチン電車ですね🚃
南宗寺は、御陵前駅で降ります。天王寺駅から30分です。
この沿線には、楽しい史跡が多く、
宿院駅で降りたら、千利休の館跡があるみたいです。 

最後まで見て下さり有難うございます。
皆様どうか良い週末をお過ごし下さい、
いつも有難うございます。