三好元長(みよしもとなが) | 春空に一息 

春空に一息 

いつも大変有難うございます。
日頃
心に残った事を、
書いていきたいと思います。
(旧ブログ名 ひめたんとほっとTea Time)

今日も来て下さり、ありがとうございます。

大分前ですが、

6月24日(水)放送の、NHK歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の天下人 三好長慶」 を見ました。(三好長慶の話はまたの機会に・・)

 

今回は、三好長慶のお父さん、三好元長のお話です。(もともと三好家は、四国の徳島県が本拠地です。)

今回の記事を書いてて、ふと私の頭をよぎったシーンがありまして・・

ボクシングの、相当壮絶ななぐり合いです。。

スキがあったら、すかさずカウンターパンチが飛んでくる。。。ボクシング

こちらも、すかさず反撃をくらわす・・

それを、敵同士ならまだしも、味方の中でも、やるんです。。。

そんな時代の、お話です。。。

 

室町幕府ナンバー2、細川晴元に仕える武将の中で、

最も力のあった元長。

あまりに力があったので、

次第に主君の晴元から、警戒され、疎まれてしまいます。

ついには、主君の晴元から、大軍(10万)を差し向けられてしまいます。。1532年の事です。

 

身の危険を感じた元長は、

故郷の四国の阿波国に、自分の息子の長慶を、急いで逃がします。

その翌日、元長は大阪、堺市の顕本寺(リンクあります)で重臣たちと自害。(32歳)

その最後は壮絶で、今でもその時の生々しい様子が、お寺に語り継がれているそうです。

(くわしく言うのはやめます)

 

この時、三好長慶は、まだ11歳だったそう。今の徳島県の、藍住町という所に逃れたそうです。

父の元長、そして多くの家臣を、この時失ってしまった、長慶。

わずか11歳で、何と自分の家の命運を背負う事になってしまいます。。

(そういう経緯で、この時、三好家はとにかく非常にマンパワー不足だったのです。

それで、松永久秀のように、身分は低くても、仕事ができる武将を、とにかく次々に家臣に登用していったみたいです。)

 

そもそもどうして、

元長は、故郷の阿波から、近畿に出てきて活躍する事になったのか、そのいきさつですが・・

 

1526年、

畿内が混乱しているのに乗じて、足利義維(よしつな)と細川晴元を擁して阿波で挙兵。

翌年、当時の室町幕府のトップの足利義晴と、

ナンバー2の管領、細川高国が近江(滋賀県)に逃亡してしまったのを契機に、

阿波から大阪の堺に上陸し、堺幕府(1527-1532)を樹立したとの事です。(義維と義晴は兄弟どうし)

堺幕府??

当時京都にあった幕府を完全ムシして・・・

阿波(徳島県)から畿内に出てきて、自分達で勝手に幕府を作っちゃうという。。。

とにかくこの時代は、権力闘争がかなり激しく、何でもありな、時代だったようです。。

(足利義維さんは、結局将軍にならなかったようです。朝廷から、従五位下、左馬頭に任ぜられたけど、

元長が自害した事により、元々いた阿波国に帰ってしまったようです。)

 

元々三好家は、阿波・細川家に仕える豪族だったとの事です。

おじいさんの三好之長の代にも、がんばっています。

なんとおじいさんも、畿内に進出してたんです。。

ところが、

結局細川高国との戦いに敗れて、死んでしまったそうです。

元長は、その悲願を受けついだんですね。。

三好家は、代々権力志向が強いと思われます。。

 

元長の息子の、三好長慶は、「麒麟がくる」にも出ていましたね~!山路和弘さんが熱演していました。

三好長慶は、織田信長にとっても、非常に脅威というか、大きな影響を与えた人物だったようです。その話は、次回もしくは、別の機会に・・

 

 

私事ですが・・

夫の仕事を、私も手伝っていまして、

その関係で、更新、ご訪問、ご返信が遅れたりしてすみません。

不定期ですが、更新させて頂いています。

今後、ブログタイトルは、大幅に変更することはありません。

今後もブログ活動は、がんばって続けたいと思います。

すみませんがよろしくお願い致します。

 

どうか良い週末をお過ごし下さい。

いつも有難うございます。

 

 

※追記です

斉藤道三と、三好長慶の、共通点。。

 

管領という役職は、

今でいうと、官房長官とか、幹事長ぐらいだそうです。。

三好長慶は、

官房長官クラスの、細川晴元を退けて、

自分で、三好政権を立ててしまうのです。(この時将軍と管領は、事実上傀儡だったそうです。)

 

あれ、どっかで聞いた話だな~、

と思ったのが、

 

斉藤道三と、土岐頼芸(よりのり)の関係です。。

土岐頼芸は、岐阜県 美濃国の守護大名でした。

守護というのは、今の県知事みたいなものです。。

 

土岐頼芸を美濃から追い出した後、道三は、実質美濃国のナンバーワン、支配者となります。。

いわば、岐阜県から、県知事を追い出したような感じですよね。。

 

将軍とか、管領とか、守護とかに仕えるんじゃなく、

自分が支配者になる

というのが、斉藤道三と、三好長慶に、共通してるな~、と思いました。(しかも、主家の内紛に乗じて)

もしかして、この事は、

織田信長にも、影響を与えたのかも・・・

どうして、足利義昭を、京都から追放してしまったのか・・

やはり、なんか似ています。。それとも、必然的にそうなってしまうんでしょうか 

途中でどうしても、仲が悪くなっちゃうんでしょうか??

 

長くなってしまいました。すみません。

お付き合い下さり、どうも有り難うございます。