生ごみを1トン/day処理できるというプラントの紹介をしてくれた人がいた。微生物の力で分解し、処理した後に発生する僅かな残渣は農業利用するのだという。多くの場合、技術を自慢し、それに驚く人たちは農業の現場を知らないことがほとんどだ。
これは新しい技術だという。
いや、本当に新しいのか?
消えてしまうというその現象を見たことない人が、ただ驚いてあちこちでしゃべっているだけだ。こんな技術は昔から存在していて、大して驚くようなことではない。
生ごみ1tが土壌改良材50kgになったとする。さて、毎日処理したとしても1,500㎏/月しか排出されない。「しか」なのか「も」なのか…土壌改良材をどこでどのように使うか考えないといけないのだ。
私の中の結論は、そんな1,500kgはゴミとして捨てなさいということ。生ごみであるならば、原料は安定しない。つまり土壌改良材としての成分が安定しない。そして、仮に安定していたとしても、高々1,500kgの土壌改良材を売って得られる利益は高々知れている為、そんな不安定な原料を使った土壌改良材を販売しようなんていう業者は現れないだろう。現れたとしたら…結果は見えている。
人間の都合で作られたモノは、農業、土壌、土壌微生物、植物の都合で作られたものではないから、必ず問題を起こす。そして、うまくいかないと「あれを追加する」「これも追加する」なんてことが起こるのだ。
堆肥を作って土壌改良材として使用していくことは、とても有意義なことだと思っている人が多い。それは、農業関係者でも、研究者でも、一般人でもだ。ところが実際には、この方法は特別な状況でない限り、成立しないと言ってもいい。
農業で土壌改良材を使う理由は、土壌微生物の活性だったり、団粒構造の形成だったりする。どんな結果が出た時に微生物が活性したと認識しているのか、どんな土になった時に団粒構造を形成したと言えるのか、その明確な判断ができない生産者が多い。そして、そのような状況になったとしても、それにより農業にどれだけメリットが出たかトレースできないのだ。仮に効果を実感できたしても、コストが合わないというのが現実なのだ。
堆肥を作る為には、堆肥場にその原料となるものを運び込み、堆肥が出来上がるまで発酵工程を管理しなければならない。ところが、数か月管理して出来上がった堆肥が実際に効果性があるモノなのかどうかという点については、疑問の残るところ…というのが実状だ。
実は、この効果性という問題ではなく、堆肥場にその原料を持ち込んだ時点でコストが合ってない。原料が無料だったとしても、トラックでの原料輸送費を原価にプラスした時点でコスト的にはアウトなのだ。農業で使える資材費は本当に安い。
廃棄物を原料として作ることが多い堆肥でも、生産管理費、堆肥の運搬費、圃場への散布工賃など掛かる経費は多い。つまり、既存の工程の中に新しい技術を落とし込んでも、革新的な技術が生きることは少ない。
既存方法からの脱却が必要なのだ。
農業に限らず、新しい流れを作らずに、既存のシステムの中に技術を落とし込もうとする人は多い。農業と連携して循環システムを構築しようという発想があるならば、実は生ごみが消滅することが重要なのではないのだ。安定的な品質の土壌改良材が必要量、つまり既存の土壌改良材製造会社の供給量と同じような量が確保できなければ土俵にも上がることはできない。でも、大量の土壌改良材を生産地の圃場に運搬するのは非常にコストが掛かる…。つまり、圃場から離れた場所から排出されるモノを使って循環システムを構築しようとする時点で無理があるのだ。つまり、排出されたものがどんなに良い土壌改良材だったとしても、圃場から離れている場所から大量のガソリンを消費し、排気ガスをまき散らしながら生産地に運搬すること自体がナンセンスだ。
有機農業に「畑には化学合成物質は入れない」「人間が輩出した危険ではない廃棄物を有効利用する」というコンセプトはあっても、本当に植物の生育環境、土壌物理性・生物性に適った良い規格なのか?と言われると言葉に詰まってしまう。ましてもや、経済活動を後押しするような規格ではないと断言できる。そもそも、日本という狭い国土の中で考えられた、既存の古い農業で使用する資材を有機資材(有機JAS認定資材)に置き換えただけの「人間の都合で考えた規格」だからだ。
今必要なのは、これからの時代で成立する農業ビジネスの構築だ。古い方法の一部を新しい技術に置き換えるようなつぎはぎだらけの構築ではなく、イノベーションを起こす必要があるのだ。
