V14西武 のブログ -26ページ目

V14西武 のブログ

ブログの説明を入力します。

 昭和54年(1979)、新しくイメージを一新してクリーンなイメージで出発した新生ライオンズでしたが、とにかく弱い、弱い!

 「負けた...」「また負けた...」「いつ勝つんだろう...」

 負けて負けて負け続け、ついに24年ぶりの開幕12連敗!

これは今でも西武 (とともに今はなきトンボ・ユニオンズ) の持つ不名誉な開幕連敗記録です。


 楽天も1年目は弱かったのですが、あの当時の西武は楽天とは比べものにならない弱さでした。

ゴロが転がる、フライが上がる、そのたびにエラーの心配をしていました。

(実際にたくさんエラーをしていました)

打てない、守れない、走れないの三拍子で、他のチームの監督は、西武との対戦を指折り数えて待っていたと言われています。


 ついでに言うと、野村克也、江夏豊といった歴史に名を残す大選手も最後は西武で余生を送り、「名選手の墓場」などと陰口をたたかれたこともあます。


 初めて勝ったのは南海でした。

かつて巨人と日本一を争った往年の面影も消えうせてしまった弱小の南海ホークス相手でしたが、それでも初めて勝ったうれしさはファンでないとわかりません。

勝利投手は松沼博久(松沼兄弟の兄)で、その試合かどうかは忘れましたが、

西武球場第一号ホームランは西武の立花義家でした。


 「いつか強くなる」 「いつか優勝」 「いつか日本一」

でも遠い遠い先だろうな... と思いつつ、ライオンズの試合を楽しんでいました。

今から考えるとあの当時は、勝ち負け関係なく、単純に純粋に野球を楽しんでいたと思います。


 次回は

4年目にして日本一! あっという間に強くなったライオンズ! について

書いてみます。


 

 


ある本で見つけた中国の昔話です。



ある王が馬を飼っていたが、飼育係がその馬を死なせてしまった。

王はひどく怒って刀を手に取り、飼育係を斬り殺そうとした。

その時、王に仕えている一人の賢者が言った。

「いま斬ってしまうと、この者は自分の犯した罪を理解しないまま死ぬことになります。お願いでございます。

陛下のためにこの者を責め立てて、その罪を理解させてからではいかがでしょうか。」

王は了承した。


賢者は刀を飼育係の目の前に振りかざして言った。

「お前はわが王のために馬を養っていたのにこれを殺した。

 お前の罪は死に相当する。

お前はわが王に、馬の死を理由に飼育係であるお前を殺させる。

 この罪も死に相当する。

お前はわが王に、馬の死を理由に飼育係であるお前を殺させて近隣諸国の王の耳に入るようにさせる。

 この罪も死に相当する。」


王は言った。「もうよい。許してやれ。私の人徳に傷がついては困る。」


  昭和53年(1978)秋、西武鉄道がクラウンライターから経営権を引き継ぎました。



 昭和47年(1972)についに西鉄が経営権を手放してからの6年間のライオンズは全く不遇でした。太平洋クラブとクラウンライターという、ただ名前を売りたい一心で球団を持ち、ライオンズを強くするなどということは全く眼中にない企業にもてあそばれていました。クラウンライター時代のド派手で奇抜な客寄せユニフォームはその象徴です。ドラフトでは、高校時代からプロ級と言われていた江川卓(えがわすぐる・作新学院―法政大学―巨人)を指名し、当然のことながら拒否されました。



 西武鉄道は買収して「西武ライオンズ」となった弱小球団を人気球団にすることに全力を挙げました。

(ただクラウンは経営権を完全には譲渡していなかったので "Lions" のロゴの基本デザインはクラウンのものを引き継ぎました:スライドショーをご覧ください)

 

 その主なものとしては、


1 球団シンボルを「レオ」とする

  西武ライオンズが選んだのは、手塚治虫の人気漫画「ジャングル大帝レオ」のレオでした。若い世代の方々には全くピンと来ないと思いますが、当時の日本を代表する人気漫画家の人気作品のキャラクターを使ったことは、ライオンズの人気獲得には効果絶大でした。西武は手塚治虫からレオの著作権を買い取ったのです。


2 チームカラーを青とする

  西武は「ファンの開拓はまず子供から」という方針の下、「子供が一番好きな色」ということで青を選びました。そして青・赤・緑の三色ラインは「ライオンズカラー」として球団グッズにも使って大々的に売り出し、定着を図りました。


3 自前の球場を持ち練習施設を隣接させる

  プロ12球団で自前の球場を持つ球団は、当時は阪神(阪神甲子園球場)だけで、現在でも阪神と西武だけです。西武ライオンズ球場(略して西武球場)は設計面でも特徴があります。地面に建てる通常の「ビル型」ではなく、地面(丘陵)を掘り下げてすり鉢状にし、バックネット裏からグラウンドに向かって下に降りていく、という独特のものです。駅からはゆるい坂を登って行く造りですが、その斜面の角度をオーナーの堤義明みずからチェックしたというのは有名な話です。


4 有名選手の獲得

  なにせ弱小球団でしたからスターどころか看板選手さえいません。そこで新生西武は、阪神と大トレードを行い若手の有望株と引き換えにスター選手を獲得しました。

  阪神 : 田淵・古沢 → ← 西武 : 真弓・若菜・竹之内


   田淵は巨人の9連覇時代に4番を打った花形打者、古沢は先発要員でした。

   西武(クラウン)から移った3人はその後レギュラーとして活躍し、監督・コーチとしても活躍しています。


その後も投手の松沼兄弟、石毛宏典などの大学・アマ球界の花形選手の獲得に努めました。そして監督には球界に豊富な人脈を持つ根本陸夫をそのまま充てて強化に努めました。


5 地元ファンの開拓

  西武は鉄道・バス・デパート・スーパー・運送会社を持つ強みを最大限に利用して宣伝に努めました。試合の翌朝の電車で結果を伝える「ライオンズ・ニュース」は宣伝効果絶大でした。



人気開拓のための戦略の「概要」だけでもこれだけですから、当時の西武がいかに大変な労力をつぎ込んだかがわかるというものです。


次は初期のライオンズの戦いぶりを一ファンの視点から書いてみます。