西武ライオンズ創立当時のパ・リーグは2シーズン制でした。 セ・リーグに対抗する人気打開策の一つでしたが、これは4月から7月前半までを前期、10月初めまでの残り3ケ月を後期とするものでした。 前期優勝チームと後期優勝チームが違う場合はプレーオフで年間優勝チームを決定しました。(5戦3勝方式)
1年目の西武は惨憺たるありさまでしたが、2年目からはわずかながらも上昇の気配が感じられ、年間4位に順位を上げました。
3年目は前期はさえない戦いぶりでしたが、後期はすばらしく、一時は優勝争いに加わって9月までスタンドを熱狂させました。 最後は息切れしてやはり年間4位に終わりましたが、有能な選手の補強を着実に続けてきた成果が少しずつ現れ、今後に期待を抱かせる戦いぶりに変わってきました。(6位→4位→4位)
そして4年目・昭和57年(1982):
4年前に弱小ヤクルトを日本一に導いた名将・広岡達朗を迎えた西武は、開幕当初から首位を独走! しかし阪急(現オリックス)の追い上げも激しく、6月末の天王山の3連戦で勝負が決まる展開となりました。 阪急には福本豊というものすごく足の速い選手がいましたが、この福本が塁に出るか出ないかで試合の展開が変わってしまうほどでした。
敵地・西宮球場での初戦。 奇策・先発永射! 広岡監督は左打ちの盗塁王・福本対策として、中継ぎ専門の変則左腕の永射保を先発させました。 この奇策に阪急・上田利治監督は呆然としたと伝えられています。 相手先発の立ち上がりを攻略した西武は2回で6―0と大きくリード、勝利を収めマジック1としました。 天王山の緒戦に敗れてガックリの阪急は翌日もいいところなく敗れ、西武初の前期優勝が決まりました。
ところが後期の西武はなぜかサッパリで、大沢啓二監督の日本ハムが独走優勝しました。 前期と後期の優勝チームが異なる場合、勢いを持ち込める後期の方が普通は有利です。 このプレーオフも大黒柱の工藤幹夫(投手八冠)と絶対的リリーフの江夏豊を擁する日本ハムが絶対有利といわれていました。
しかし勝負はやってみないとわからないもの。 プレーオフ第1戦では江夏で逃げ切りを図る日本ハムに対し、「必殺仕事人」と呼ばれた勝負強い大田卓司のタイムリーで苦しみながら勝利!
第2戦も接戦でしたが、勝負どころで大田が江夏からまたまたタイムリー、傍目にはまさかの西武連勝でした。
後楽園球場に移って第3戦は日本ハムが勝利を収めましたが、第4戦では劣勢だった西武が、テリー・ウィットフィールドの逆転満塁ホームランで勝利を収め、ついに念願のリーグ優勝を果たしました。 西鉄最後の優勝以来実に19年ぶりでした。
セ・リーグは近藤貞雄監督率いる中日が優勝しました。
西武と中日がそれぞれ敵地で連勝して迎えた所沢での第5戦が、シリーズの流れを大きく変える節目の試合となりました。 西武がリードしていた展開で、中日打者の一塁線への打球が二塁打、同点!と思ったら何と、一塁塁審の足に当たって二塁方向に戻ってきました。 走者の田尾は三塁を回ったところであわてて引き返しましたが間に合わずタッチアウト! 「どうしてあんなのがよけられないんだ!」と、中日はベンチも選手もカンカンでしたが、審判は石と同じなので抗議できません。 西武が3―1で勝利を収めました。
後味の悪い思いで名古屋に戻った中日でしたが、第5戦は優位に試合を進めていました。 ところが南海から移ってきた西武の伏兵・片平晋作にまさかの逆転3ランで一気に劣勢となり、そのまま西武の日本一が決まりました。
もう27年も前のことですが、昨日のことのように覚えています。
それだけ必死だったんですね。 あの時の熱い気持ちは今の若いファンのみなさんにも負けないと思います。
次回は
球史に残る名シリーズと言われている、昭和58年(1983)の、巨人との日本シリーズを中心に書いてみます。