母の「死ぬまでには、父さんが戦死したニューギニアへ行きたい」という願いを叶えられなかったことが、心残りだと前回のブログに書いた。

しかし、もう一つ心残りなことがある。

それは、きちんと感謝の気持ちを伝えられなかったことだ。

私とは同じB型で気性もよく似ていた。

口論になってしまうと、どちらも引かない。

最後には私が怒って、捨て台詞を吐きながら母の元を離れ、

しばらく会いに行かないということも度々あった。

今思えば、一番理解してほしかったはずの私の態度は、

母を何度も悲しい思いにさせていたのではないかと思う。

〈忘れられない思い出の一つ・・・〉
あれは母が土木建築事務所で働いていた頃のこと。

私たち兄弟3人は母に会いたくて事務所に歩いて行った。

当時私は小4、次男が7歳、三男は4歳。

入り口ドアの窓ガラスから中を覗く6つの目に気づいた母は、

なんとも言えない顔で私たちを中に入れてくれた。

仕事が終わっての帰り道。

母は後に私と次男を、前に三男を乗せて自転車をこいだ。

橋の手前の上り坂にさしかかる。自転車は思うように進まない。

母は真っ赤な顔をして必死に自転車ペダルを踏んでいる。

震える母の背中を見かねた私が「降りる・・」といったが、

母は「降りんでいい」と苦しそうに言いながら、

なおもペダルを踏みしめた。

自転車はゆっくり、ゆっくり、坂を上っていった。

坂を登りきって橋を渡ると、今度は下り坂。  

涼しい風が母の髪に、私達の頬に吹いた。

その風がとても気持ちよかった。

苦しい上り坂は、まるで当時の母の人生そのものだった。

苦しくても苦しくても歯を食いしばって小さな体で3人を育てた母。

あのときの母の背中は今でも忘れられない。

生きざま・生き方を教えてくれた。

死に方さえもあまりに潔かった。

母には感謝しかない。

だからたった一言、伝えたかった・・・

「私たちを産んで育ててくれて、本当にありがとう・・・」

 

そして、

 

定年まで無事に勤め上げた姿を見せたかった。


母のことは思い出すときりがない。

「亡き母のこと」は、今回でひとまず終えたいと思う。