単科大学としての外国語大学に未来はない! | A través de los tiempos perdidos /「失われた時を超えて」

A través de los tiempos perdidos /「失われた時を超えて」

外国語大学スペイン語学科卒業、メキシコ・グアダラハラにて、半年間、日本語教師。
スペイン北東部のナバラ大学、マドリード近郊のアルカラ大学留学。以後、スペイン語翻訳に従事。

 大阪には、かつて大阪外国語大学という公立の外国語大学があったが、いつのまにか消滅している。

 

また、英知大学といって、キリスト教系の大学もあったが、ここももうこの世にはない。

 

関西には、関西外国語大学と天理大学の外国語学部と京都外大がある。

 

外大に行ったら、いつの日か自分の学んだ外国語の国に行ってみたいというのは、人情だろう。

 

しかし、私の恩師などは、スペイン語をやっても貿易用語は基本英語なので、スペイン語などやっても意味がないと言っていたのです。

 

それなら、なぜ学生やその父兄らからお金を取って、私学助成金も国からもらい、スペイン語の特訓を18や19くらいで施し、しかし心のどかで、「スペイン語なんかやって何になるんだ」と本音では感じながら、教育を施していたのだろうか?

 

ちなみに、関西外国語大学は、確か中国語学科はなかったはずだが、中国共産党の出先機関である孔子学院があり、なので基本、この大学は左翼リベラルであり、唯物論無宗教の大学である。

 

スチュワーデスになるなら、関西外大へ行けと言われるくらいの大学なのだが、しかし空の上で配膳するだけの仕事をするのに、そもそも大学になど行く必要は一切ない!

 

天理大に外国語学部があるのは、海外布教活動のためであり、商社マン育成のためではありません。

 

私の大学時代の恩師にF教授という方がいたが、この方は天理大のスペイン語学科卒である。

 

しかし、大の宗教嫌いで、天理大学卒を恥じているかのようであった。

 

口では、ヒューマニストを自認していながら、行動においてはまったく真逆の方であった。

 

一種の精神分裂病者であったといって、過言ではない。

 

しかし、宗教嫌いである割には、提携先のカトリック系大学に出張に来ては、夏休みや春休みを満喫しておられた。

 

また、16世紀の織豊政権時代の宣教師の書いた文献を研究し、日欧交渉史の教授だった松田毅一先生も、授業中にクリスチャンの「沈黙」で有名な遠藤周作氏を批判していたが、この方も基本無神論者であった。

 

また、近松門左衛門の子孫であった近松教授も、大の宗教嫌いであり、あえてシンパシーを感じているのは、禅宗であると言っておられた。

 

また、N教授も、留学先のカトリック系大学では、創立者がカトリックであって、随分とお世話になっておりながら、自身は無神論者である。

 

また、京都外大では、宗教学を選択科目で取っていたが、宗教学を講ずるなら、あなたのスタンスをハッキリさせなさいと迫ったところ、次の週から、急に親鸞の歎異抄講義を始める有様であった。

 

京都外大は、そもそも、建学者が森田氏といって、数学者であった。

 

戦前の方であり、2度と戦争を起こしてはならないという理由から、外国語大学を創建した。

 

しかし、建学の精神は、「言語を通して世界平和を」と不撓不屈。この2つしかなく、思想も信条も何もへったくれもなく、いわゆる「不可知論者」であった。

 

また、創立者亡き後、その奥様が学長を長く務めたのだが、この方も現代で言うところの、左翼リベラルで男女平等の考えが極めて強い方であった。

 

次の学長になった方は、私はメキシコでこの方と一度話した事があったが、京都外大には、建学の精神以外にも、何らかの思想的なバックボーンがあるのかと問うたところ、鼻先で笑われてしまった。

 

教育者の風上にも置けない小人(君子の逆)だと思った。

 

また、教授達は、大変仲が悪く、学生であった20代の頃は、随分と悪口を聞かされたモノだった。

 

もし、これが宗教系の大学なら、その辺りの道徳的観念は、もう少しマシだったのではないか?

 

あるいは、ある程度の歯止めが効いていたのではないか?

 

ちなみに、私の妹は同志社女子大どある。

 

クリスチャンの新島襄の大学で、元はと言えば、キリスト教布教のための大学だったが、今は有名無実化している。

 

もちろん、経営陣は全員、クリスチャンなのではないかと想像はしているが、逆に悲クリスチャンは経営陣にはなれないのではないか?

 

私の在学中の、クラスでも優秀と言われた女性がYMCAに就職が決まったと喜んでいたが、私が「あなたはクリスチャンなのか?」問うたところ、「違う」との返答で、「クリスチャンでなくても、いいみたい」と言っていた。

 

しかし、その女性が、もし管理職になったならば、否応なくキリスト教と愛対峙しなければならない羽目になるのは、一目瞭然である。

 

また、我が母校である京都外大は、京都大学の左翼崩れの教員の吹き溜まりのような大学だった。

 

同志社も関西学院も、関関同立と言って、偏差値の割と高い大学で、私の妹の息子、つまり私の甥も母親に倣って、同志社に学んでいるが、宗教の宗の字も聞いた事がない。

 

同志社とは、志を同じくするものであり、それはキリスト教精神を共にするという意味であるが、同志社の経営陣も、本当はキリスト教などどうでもよいと思っているのかも知れない。

 

なら、なぜ同志社や関西学院(メソジスト派)に行きたがるのか?

 

それは、高偏差値であり、若い女性がブランドもののバッグを見せびらかしているのと大差無い。

 

世の中の人は、なぜこのような矛盾、欺瞞を棚上げにし、偏差値と実績(就職率)だけで、かくも矛盾に満ちた世の中を行き渡って行こうとするのか?

 

誰か、以上の私の疑問に即答できる者がいたら、コメント欄にどうぞ!