まず、結論から。
言語学的観点から、イスラム教のアッラーの神と旧約聖書に出てくるエローヒムは、まったく同じ神である。
その理由について、
まず、ヘブライ語のエローヒム。即ち、Elohimの最後のmに注目して頂きたい。
ヘブライ語においては、語尾のmは複数形のmなのである。
例えば、ユダヤ人には、大きくは2種類の血族が存在する。
それは、スファラディとアシュケナジーである。
しかし、スファラディをスファラディムと呼んだり、アシュケナジーをアシュケナジムと呼んだり、語尾がmで終わっている場合がある。
これは、先にも書いたように、mとは複数形なのである。
ゴイムも、そうですね。ゴイと言ったり、ゴイムと言ったりします。
ですので、エローヒムとは単数形ではなく、複数形の神を意味します。
しかし、最後のmを取り除くと、エローフとなります。
かたや、イスラム教のアッラーは、アッラーフ、アクバル。神は偉大なりと、イスラム教徒たちが唱えているように、アッラーではなく、正式にはアッラーフであり、最初のalはアラビア語の定冠詞に当たります。
なので、この定冠詞を取り除くと、イラーフとなります。
先ほどの、エローヒムのエローフとよく似ていますね。
つまりは、エローフとイラーフは、言語学的には、同根です。
では、エローヒムは、なぜ複数形なのでしょうか?
難しい概念ですが、これこそが、まさしく、絶対矛盾的自己同一という、京都学派の西田幾多郎の言葉を想起させます。
例えば、薬師如来という、医療系の高級霊がいます。
この医療系の高級霊が、戦争や災害などが起きて、一つの魂の高級霊が何百、何千と分光し、もっと下位の医療系の天使たちを指導する際に、活躍する場合があります。
本来一つの魂が、一つであって、一つではない。
これを、西田幾多郎は、絶対矛盾的自己同一と定義しています。
エローヒムが、一つの神でありながら、複数形となっているのは上記の理由によります。
今も、イスラム教徒であっても、アッラー以外にもエローヒムの神に祈りを捧げるのも、以上のような理由があっての事なのです。
以上が、エローヒムとアッラーの神同根説でした。