「働く」という言葉の語源から見た欧米人と日本人の労働に対する価値観の違い | A través de los tiempos perdidos /「失われた時を超えて」

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外国語大学スペイン語学科卒業、メキシコ・グアダラハラにて、半年間、日本語教師。
スペイン北東部のナバラ大学、マドリード近郊のアルカラ大学留学。以後、スペイン語翻訳に従事。

  今もあるのかは知らないが、かつて女性向け職探しの雑誌で、「とらばーゆ」というものがあった。

 

私はスペイン語が専門なので、フランス語には興味はないのだが、これは明らかにスペイン語のtrabajo(トラバホ)のことで、フランス語のとらばーゆとよく似ているのは、語源が同じだからである。

 

意味は、仕事というスペイン語なのだが、もとは同じラテン語から来ている。

 

ただし、日本人がこのラテン語の意味を知ってしまうと、暗澹たる気分になる。

 

まず、スペイン語のtrabajoの最初のtraとは、スペイン語の「3」を意味するtres(トレス)から来ている。

 

そして、bajoとは、ラテン語のpalusから来ており、杭とか棒を意味する。

 

即ち、trabajoとは、ラテン語で、3つの棒ないし、杭という意味であり、古代ローマ時代に存在した3つの棒を使った拷問の道具という言葉から来ている。

 

即ち、スペイン語のトラバホもフランス語のとらばーゆも、3つの棒という拷問の道具という意味のラテン語に起源がある。

 

また、trabajoの動詞形では、trabajar(トラバハール)といい、意味は「働く」という意味なのだが、これも同じくラテン語のtripaliareとなり、「拷問にかける」という意味がある。

 

転じて、古い時代のスペイン語で、trabajarとは、「骨を折って働く」とか「苦しむ」という意味があり、従って、スペイン語のtrabajoもフランス語のとらばーゆにも、元々の字義からすると、「労働」とういうものに、決して前向きで、積極的な明るいイメージはない。

 

それに対して、ドイツ語では、「仕事」のことを「ベルーフ」といい、神から与えられた「天職」という概念であり、ラテン語とは起源を異にするゲルマン系の言葉においては、仕事や労働に対する価値観がまったく逆転した積極的なイメージがある。

 

かつて、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という書物を著したマックス・ウェーバーという社会学者が、プロテスタンティズム、とりわけカルバン派の信者が多い資本主義国が経済的に栄える傾向にあると主張していた訳なのだが、宗教に淵源があるだけでなく、ラテン諸語の国々の言葉の語源を見ただけでも、労働に対する価値観が、ラテン系とゲルマン、アングロ・サクソン系とではまったく異なるということが一目瞭然なのである。

 

働くという言葉が、拷問であると考えている国の国民と、神から与えられた使命、天職だと考えている国民の国と、どちらがGDPが高くなるかは、民族の記憶とその潜在意識レベルの価値観からして違うのだから、推して知るべしなのである。

 

翻って、我が日本はどうかとう言うと、以前ある方が、ダジャレで「働く」とは、「はたが楽になる」要するに、奥さんや子供といった、家族を楽にするのだと言っていたのだが、それが語源的に真実かどうかはは、分からないが、「古事記」には天照大神という日本の中心神が、機織りをしているという記述があり、神様でも働くのだから、ましてや我ら一般庶民はなおさらであって、勤勉でなければいけないという意識が日本民族の潜在意識レベルでの記憶として刻印されていると言うような事が、故渡部昇一元上智大学教授の本にも書かれていた。

 

最後に、スペイン語のtrabajoと同じ意味で、labor(ラボール)、(労働)という言葉があるが、これも元は、ラテン語で「苦しみ、疲労」というマイナスの意味を持つ言葉である。

 

まったく、救いようがない!!!