持ち物がひとつ多いな とはすぐに思った

 

1日経った今なら

心配という行為は

相手のことを信頼していない という表れになるので

子どもに対しても

心配ではなく

信頼して 何事もやらせる 外に送り出す

ということをちゃんと思い出せるけど

 

その時は単純に

心配という感情は波動が低いから

だめ そうじゃなくて

私がイイ気分になれば

私の世界は望んだ通りになるんだから

私がイイ気分になろう と

Akaneさんが教えてくれたことを何度も思い出して

 

でも 悪い癖は直らんもんで

私がこの席に座っているのがいけなかったのか

とか 思ってしまったりした

 

いやいや

私がどこに座ろうと

私がいくら心配しようと

何も変わらないって とにかく

お願いはするだけして(笑) ←かなりした(笑)

あとは 私がイイ気分に というか

安心して 心配しないで ここにいる

お願いする時は 曲に合わせて

目をつぶって集中するようにした

集中の方向が違うのはわかってたけど

昨日の私にとっては

ただその1点だけが重要であって

全体的な味わい みたいなものは

完全に手放した それは

私以外の二千人がやってくれる

 

思考の現実化が速まっている という話も

丸ごと信じて そしたら

本当に 願ったように

目の前の世界が展開され始めて

あぁ よかった ほんとに

うれしかった ありがとう

 

私は 例えば

体調不良を押して仕事をする ということを

放棄して久しいのだが

それがどれだけ大変かは体感としてわかっていて

だから ただ能天気に座っているだけの自分を

責めるというか

何も出来ないことが

そもそも何か出来るわけもないのだが

無念で だから

私がこの席に座っているのがいけなかったのか

みたいに 無駄な自責を始めてしまう

そんなの気休めと自己弁護だろう気持ち悪いよね

 

でも 願いが叶い始めたら

私がここにいてもいなくても

同じというか なんと言えばいいのかな

私がここにいるといないのとでは

何かが違うんだろうけど

少なくとも私自身が認識すべきことは

私はここにいてもいなくても

同じで

私がどう 私はどう みたいなことを

消して 欲を消すという感じかな

大切な人の状況が少しでも良くなることが

一番うれしいことなのだと

書いてみると至極あたりまえのことで恥ずかしいが

これを学んで 少しだけ成長したかなと思う

もちろんこれは私の目から見た世界のことで

実際のところはわからない

でもそれはどうでもいい

私にはわかり得ない

 

ちょっとずれて撮影

これくらい上がった方が

邪魔?にならなくて良いのかもしれないけど

取ってしまったものは仕方ない

 

世界には私しか存在していなくて

私が見えているもの 認識できるものが全て

であるなら

相手から見てどうこうという考えは

まったく必要ない

そうなんだけど

行き道 ちゃんとがんばったはずなのに

あぁ今日もまたイケてないなぁ

とガッカリしてしまったことは

良くなかった 思ってはいけないことだったな