多くの人が語るように
私もきっとこれをキッカケに
人生をまっすぐに正すんだろうと思った。
FUKUSHIMA 50 の報道を見て
ついにこの時が来た
東海村の時にランディさんが書いてくれてたから
こういう人達がいるだろうことは知っていたけど
ついにこのことを知る時が来たと思うと同時に
より大きなもののために自分を投げ出す人達がいて
私にもとっくに「より大きなもの」が見えていて
それなのに未だ自分を投げ出せない私はなんなんだ
私の「自分」なんて本当に取るに足らない
一瞬で消すことが出来るはずのものなのに
どうして私には消せないんだとも思った。
早々にテレビは消したが
志の高いラジオ局からも
「被災地の方々を励ます応援ソング」がかかり始めた。
リクエストした「被災地にいない」人達は
バブル期に歌われたこの手の歌謡曲の歌詞の内容を
本当にわかっているんだろうか。
どうしてこういう曲を「被災地の人達」に「贈る」ことが出来るのか
私にはわからない。
その曲が与えてくれる「勇気」や「希望」は
「恋愛」と「挫折」にしか使ってはいけない。
> つまり「喪失」とは
> 「自分自身を構成している何かを失うこと」であり
> そう考えればこの「痛み」は理に適っている。
> これは相手が今この時を生きているか否かは関係ないように思う。
> 知ったフリしやがって、ナマイキ言うな、と叱られるだろうが
> 現時点の私にとってはそうとしか言いようがない。
「相手が今この時を生きているか否かは関係ない」は間違いだった。
当時の「私にとってはそうとしか言いようがな」かったにしろ
よくこんなことが書けたもんだと今は思う。
この10日間でわかったのは
綺麗に舗装されたまっすぐな道が見えていて
でもすぐ近くに
時間と空間のねじまがったもうひとつの道が落ちていて
見えない振りすればいいのに
忘れてしまえばいいのに
そう出来ないのが私の人生らしいということだけで
10日経っても
何もわからない。
どんな言葉を伝えたいのか
どんな言葉をかけて欲しいのか
そんな言葉が本当に必要なのか
そんな言葉が無くても信じられるのか
10日経っても
何もかわらない。
さっきの計画停電中
多和田葉子さんのエッセイ集を読んでいてわかったのは
つまるところ私が失いたくないのは
ある人と関係している自分なんだ。
それは今ここでこの本を読んでいる自分や
語学テキスト4月号を眺めてワクワクしている自分とは違う
besser ではあっても
best ではない(だろう)自分なんだ。
best ではないとわかっていて
どうして失いたくないのか。
その自分が好きだったからだ。
その自分に憧れていたからだ。
besser のベクトルが全く違う方向を差すからだ。
私は
私だけでは
存在し得ない。
これが自分の書きたいことなのかも
わからない。