恩師が次のような言葉を贈ってくれた。
自分の「幸せ」を
相手の「幸せ」のために犠牲にする
という行為には
自分の「幸せ」より
相手の「幸せ」の方が尊く価値がある
という前提があることになるがそれは
思い上がりではないのか
恩師はもちろん非常に高いレベルでこの話をして下さったのだけど
私は自分のレベルまで思い切り引き下げてこの話をする。
その人がかつて
〈埋めてあげたいと思った〉と言ってくれた「心の中の空洞」は
その人の手によって確かに埋まった、でも
その人を〈忘れよう〉とすることは
その人に埋めてもらった部分を
自分の手で
鋭利な刃物でもって細かく切り刻んで掘り出す作業であり
その激しい痛みは
今ある「幸せ」をより確かなものにする試みに
自分自身を向かわせることを阻むものだったから
私はやめてしまった。
その代わり
誰かを恋しく・愛おしく・好ましく想うことは
人の命を奪ってはならないことと等しく
無条件に〈真理〉である
と信じることにしようと決意したのだったが
それは誰にとっても等しく〈真理〉であるとは言い切れないのではないか
と思うようにもなってきた。
激しく傲慢な私も
自分が〈いなくなる〉ことで相手を「幸せ」にする
という行為の「自分」の側に自分をあてはめて考えることが可能になった。
イマサラナニヲなのだが事実なのでシカタガナイ。
自分の「幸せ」より
相手の「幸せ」を優先することは
確かに「思い上がり」かもしれないけど
結局人は自分の尺度でしか
相手の「幸せ」を量ることが出来ないし
複数の「幸せ」がぶつかり合う時
誰かの「幸せ」を守るためには
自分の「幸せ」を壊す方が
壊れるものが少なくて済む
というのがその人の〈真理〉だとすれば
誰もそれを止めることは出来ないだろう。
でもやっぱり
自分が〈いなくなる〉という選択肢は
正解ではないんじゃないかと思う。
以前「違和感」と表現したものは
この作品に書かれている「幸せ」という言葉の中身が
世間一般で言われるところの限定された型にあてはまるもの
にしか思えないという〈不満〉と書くべきだった。
「幸せ」の中身とは
それを求める人同士で決めてよいもののはずだからだ。
でも
「幸せ」の中身をどういうものにしていくかを探している途中で
相手がいなくなってしまったら
自分がどこにいるのかわからなくなってしまうような気がする。
ワタナベ君も、
私も。

