切れてしまった輪ゴムを見るのは確かに寂しい。だけど、
直しようがないものだからこそ、想い出に浸るだけで済む。


伸びてしまった輪ゴムの方が、ずっと厄介だ。


伸びてしまった、と気付いたということは、
それに気付かせてくれる第三者が介入した場合が多い。
つまり「ニュースを間接的に聴いた」ということだ。


どういうわけか、私はこの「間接的に聴く」というのが嫌いだ。


もしかしたら私も同じことを
誰かに対してやっているのかもしれないけど…


こういうことで気持ちに波が立つというところが
私の弱さなのだが、それは逆に私の個性でもあるのだから、
しっかり受け止めて、せっかくだから分析でもしてみようと、
こんなところに書いたりしているんだけど。


でも、この自身の気持ちの波によって、
「人は、人との関係の中にのみ存在する」という文学的テーマが
体感として理解できる気もする。


私がこう感じるということは、人との関係の中には
「その人に直接知らせるべきニュース」というのと
「その人には知らせなくてもいいニュース」というのがあって、
その定義が、人によって違う、ということになる。


私はそれによって、その人が私をどう思っているか、
つまり「距離」を計測している。まったくイヤなヤツだ。


でも、切れていないからこそ、その伸び具合が気になるのかも。



古い記事は検索に引っかからないようなので、自分用のリンク:
ゴムぱっちん☆
切れた輪ゴムの使い方
ゴムぱっちん☆ 実践編