これはブログを立ち上げてすぐに書こうとした作品なのだけど、
なかなかうまく書けず、結局ボツにしてしまっていた。


この小説は、高校の現国の練習問題として読んだのだ。
当然ながらほんの一部分だけを、それも切り貼りされた状態で
読んだのだけど、なんというか、とってもイヤな気分になって、
それがずーっと忘れられなかったのだ。


この小説が梅崎春生という作家の『蜆』という小説だ、ということを
知ったのは、実は一年半くらい前。恥ずかしいことなんだけど。


教科書で『蜆』というタイトルを見て、もしや…と図書館に走ったら、
やっぱりそうだった。あの小説だった。


おじさんが列車から落ちていく時の「ぶわぶわと」という表現まで
ぴったり合っていた。私の記憶も大したもんだ。


いや、そうではなくて、この小説の側が大したもんなんだけど、


なぜ、私は15年間も「ぶわぶわと」を覚えていたのか。


『蜆』は、私の中にある、
表向きには隠したいんだけど、でも確実にあるイヤな部分を、
比較的わかりやすい形でゴリゴリ提示してくるからだと思う。


「おまえも、実はそーじゃねーのか? あん?」という感じで。


ゴリゴリ度は、やっぱり『蜆』が一番じゃないかと思う。
『麺麭の話』もいいけど。


『桜島』や『幻化』になると、梅崎春生という人物について
もっと知ってから読まないと、という気にさせられてしまうが、
この『蜆』に関しては、そのままダイビングしてもオッケーだ。
何しろ、17歳の私ですら、ゾワゾワしたのだから。


もしかしたら
「戦争という極限状況を小説の舞台にした意味は何か」という問いの
答えを考えるには、私にとって最適な作家なのかもしれない。
この作品は昭和22年に書かれているので、当然なのだが。


武田泰淳や坂口安吾では、荷が重過ぎる。
梅崎春生なら軽い、という意味ではない。
私が読んで一番「ヤバイ」と思うのが、この『蜆』だからだ。
何度読んでも、これは変わらないようだ。


ただし、この先の研究対象としてやっていきたいか?というと、
それはまたちょっと違うような気もするんだよなー。うーむ。
今の私が抱えているテーマとは、ちょっと違う気がするのだ。


とにかく、『蜆』や『麺麭の話』を読むと
(それ以外をほとんど読んでないのがバレるが)
人間の、というか、自分の、イヤなところを見せ付けられて
ゾワゾワしてしまうのだけど、でも梅崎の文章からは
「それも人間。それが人間。」という肯定の姿勢が見える。
ゾワゾワしながらも、どこかでちょっぴり、安心したりする。


そういう人間のイヤな姿を目の当たりにしながらも
生きて行かなければならなかった戦後の日本人から、
私は何かを学ばなければならないと思うのだけど、
今はまだそれを言葉には出来ない。まだまだ修行が足りんな。


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