「合邦」デビュー目前!ということで、読み返してみた。
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谷崎は『蓼喰う虫』を読む限り、純粋な文楽好きのように思われるが、
実はこういう立場で文楽を観ていた、ということがよくわかる随筆だ。
彼はこの随筆の中で『摂州合邦辻』を滅多斬りにしている。
浄瑠璃の筋に理不尽は付き物だと私は思っているが、彼にしてみれば
その筆頭に挙がるのがこの「合邦」なのだそうである。
浄瑠璃の理不尽さに突き当たる度に、私は
「当時の民衆の立場で鑑賞する努力が必要だ」と思ってきたけれども、
久しぶりにこの随筆を読んで、はたと疑問を感じてしまった。
そもそも、江戸時代の民衆の浄瑠璃の解釈は、正しいのだろうか?
正しいとか正しくないとかいう問題でないのはわかっているのだけど。
今、私が文楽を楽しむ場合に、江戸時代の民衆の立場を想像しながら
観ることはとても大切だろうけど、それは
「浄瑠璃の筋をそのままそっくり受け入れて鑑賞する」
ということではない。
そうではなく、そこから受け取れる人々の生き難さ、人生の理不尽さ、
そのようなものを、なるべく正しく受け取ることが大事なのである。
なのだが、谷崎の言う通り、江戸も後期になればなるほど、
浄瑠璃の理不尽さはグングン増すように感じられる。
近松門左衛門の作品と、後継の作家群とでは、明らかに作風が違う。
無理矢理な筋、荒唐無稽な筋、
そのようなものを好む民衆とは、いったい何なんだ。
おととい、
NHK教育「知るを楽しむ」「君は人魚のミイラを見たか?」
を観て感じたのは、たぶん江戸後期の民衆は、そういう
ドギツイものを観たい欲求に駆られていたのではないか、ということ。
そういうドギツイものでない限り、
感情が動かされない環境にあったのではないか。
ひと昔前の受験校出身者の例に漏れず、私も日本の近代史には疎い。
いつも「それ、常識ですよ。」と、隣から白い目で見られている。
なので詳しくはよくわからない。でも、江戸後期・江戸末期の
鬱屈した雰囲気は、なんとなく、わからなくもない。
とはいえ、「江戸の民衆に寄り添う」とは、いったい
どこまで近寄っていけばいいのか、少し離れた方が観やすいのか、
うーむ… と呻ってしまった。
ちなみに、この随筆は昭和23年に発表されている。
当時、文楽を「痴呆の藝術」と糾弾せずにはいられなかった人々
(谷崎だけではない)の想いも、酌んでやる必要があるだろう。
それは「文楽を国粋主義の道具にしてはいけない」という想いだ。
それを差っ引いても、谷崎の文楽論は、『蓼喰う虫』も含めて
やっぱり好きにはなれない。だけど、浄瑠璃とはどういうものか、
少しでいいから、理解しようという姿勢は欠かせないと思う。
今朝のTBSラジオで豊竹咲大夫さんが語っておられたのだが、
浄瑠璃には、現代では差別的表現として扱われる言葉がたくさん
出て来るので、なかなか公共の電波に乗せられないそうだ。
なるほど、だからテレビでやってくれないわけね。
言葉もそうだが、人の扱い方自体にも問題ありありだ。たぶん。
でも、文楽とはそういうもの。江戸時代に生まれた芸能なのだから。
もちろん差別は論外だけども、文楽の上演中だけは、
適切な態度で受け取る努力も必要。
ともかく、「合邦」のストーリーくらいは予習して行かねば。